ピティナ調査・研究

第24回「コントルダンス」

今回の曲タイトル「コントルダンス」というのは名前を見たとおり、舞曲です。これはもともと「カントリーダンス」が語源で、要するにイギリスの田舎風の踊りを意味しています。

田舎風とはいえ、実際は17世紀にイギリスの宮廷で人気になり、それがフランスの社交界にも流入して「コントルダンス」となったものなので、むしろ貴族の嗜みとしての側面の方が強いのですが。

ちなみに男女がそれぞれ相手を入れ替えながらペアになって踊る、というのがイングリッシュ・カントリーダンスの基本スタイルで、私たち日本人の親しんでいる「フォークダンス」のアイディアは、この辺から派生してきたものなんではないかと思います。

ところで、アルカンの作品に舞曲はとても少ない。たとえばショパンが大量のワルツ、マズルカ、ポロネーズなどを残しているのと比べればその差は歴然です。もちろん、誰もがショパンのように多くの舞曲を好んで書いたわけではない。というより、ショパンと比べれば誰だって負ける。それでも、ワルツと名のつく作品をまったく残していないというのは、当時のパリの作曲家連中のあいだでは相当珍しいことでしょう。

そしてこのことは、アルカンの引きこもり気質と無関係ではないんだろうと私には思えるのです。

舞曲は宮廷における社交のための音楽として発展したので、人々が集まって交流する場に結びついている。ロマン派の時代では既に実際に踊るという目的は薄れていましたが、サロンに宮廷風の花を添え、お洒落な人付き合いを演出する役割を果たしていました。

アルカンはサロン向けの音楽をあまり残さなかった。そもそも人の集まりというものに興味を示さないタイプだったのだろう、ということは、残された断片的な情報からだけでも容易に想像がつきます。そして作品をつらつらと眺めていると、彼にとっては音楽というものも、常に個人的なものだったのだろうな、と感じられるのです。

ところで、ショパンの舞曲、特にマズルカの根底には社交だけはでない重要な要素がある。祖国への思いです。そういう個人的な情感をお洒落なサロン音楽へ取り込んだ――いや、サロン音楽だったものを個人の魂と結びつけて芸術へと昇華させた――手腕には、ショパンの天才性が存分に発揮されています。

いくら宮廷の嗜みに変わったからといって、舞曲は大概はもともと庶民の音楽として生まれたもの。アルカンだって、サロンなどには興味がなかったとしても故郷の舞曲に思いを託してもよかったのではないか......などとも思えるのだけれど、問題はアルカンにとっての故郷とはどこなのだろう、という部分。

ユダヤ人でありながら、パリに生まれ、その人生のほとんどを街から出ることもなしに過ごしたアルカン。生粋のパリジャンにもなれないという意味ではショパンと同じだけれど、しかし別の場所を生まれ故郷として思うことさえ許されなかった。死人に口なしとばかりにまるで勝手なことを申しますが、だから彼は心の中に空想の故郷を持っていたんじゃないかなあ、などと思うのです。

『エスキス』の曲たちからも、なんだかそんな印象を受けませんか? ギリシャや古代ローマに題材をとった曲を書いたりしたのも「ここではないどこか」への思いからでしょう。この連載の4回前で取り上げた曲は「村の小さな行進曲」なんてタイトルでしたけど、アルカンは「村」の行進なんて実際には目にしたこともないはずなのです。

「コントルダンス」も、宮廷の踊りとなったあとの姿よりもむしろ、原始的な田舎の踊りをイメージしながら書かれているような気がします。いずれにせよ、アルカン自身は「カントリーダンス」も「コントルダンス」も嗜まなかったわけだし、それらが嗜まれていた交流の場からは距離を置いていた。そんなことを考えながら聴くと、この元気の良い音楽の味わいもまた少し変わってくるのではないでしょうか。

演奏の際には、和音の連打がうるさくならないように気をつけること。かといって歯切れが悪くなってはいけません。8小節単位でのパターンの繰り返し、というのがコントルダンスの特徴です。8小節ごとのフレーズ感覚を常に忘れないでいると良いでしょう。

それでは、次回「追跡」から『エスキス』もついに(ようやく?)後半戦、第3巻の始まりです。


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