ピティナ調査・研究

第30回 パリ音楽院のメソッド 2― 『ピアニスト兼作曲家の百科事典』

ショパン時代のピアノ教育

 前回は、パリ音楽院ピアノ科女子クラスの教授アダンによって作成されたパリ音楽院公式メソッドの第2版(c. 1835)をご紹介した。この第2版が出版された30年代、ピアノのメカやテクニックの開発は留まることなく進んでいた。多くのピアニスト兼作曲家たちが独自に、絶えまなく多種多様なピアノ書法を編み出すなかで、ピアノ科教男子クラスの教授ヅィメルマンは同時代のピアノ演奏技法を包括しうるような、新しいピアノ・メソッドの必要性を感じていた。
 パリ音楽院ピアノ科教授に就任して20年、ヅィメルマンは1840年に満を持して「30年間にわたるピアノ教育の成果」として『ピアニスト=作曲家の百科事典』を出版し、友人でピアニスト兼作曲家のJ.-B. クラーマー(1771-1858)に献呈した。この著作は、パリ音楽院のために作成され、フランス芸術界の権威、学士院音楽部門の推薦をうけた。学士院の成員であるケルビーニオベールアレヴィ、カラファ、ベルトン (いずれも作曲科教授) はこの『百科事典』を「生徒と、さらには教授に対してさえ、最も推薦に値する」教材※1として位置づけている。いわば、この著作は音楽院院長ケルビーニの「お墨付き」の教材として認められていたのである。今回はまず、『百科事典』のなかで、当時ヅィメルマンが理想と考えていたピアニスト像に焦点を当てていこう。

1.理想のピアニスト像

18世紀フランスの百科全書派を思い起こさせるいくぶん古めかしい『百科事典』というタイトルは、この言葉からイメージされるのとは違って、実質上のピアノと作曲のメソッドである。この「メソッド」には、演奏技法の実例が、簡潔かつ網羅的に紹介されている。だが、彼が重視したのは演奏のテクニックばかりではない。全体は、次の3部分から構成されている。

第1部:

「ピアノの完全な基礎メソッド。含、音楽の原則、指使いの規則、練習課題、音階、2・4・6手用の24小作品集」

第2部:

「現代のエコール流派のあらゆる難技巧にアプローチするための練習/ モーツァルトスカルラッティ、エーベルリン、ケルビーニ等による様々な様式の10の作品」

第3部:

「補遺:和声・数字付きバス・対位法教程、プレリュード、ピアノによるスコア演奏法についての助言、劇場オーケストラとピアノ用作曲教程」

 ここで注目したいのは、ピアノ奏法に関する第1部・第2部に加え、和声やフーガに関する作曲理論教程が含まれている点だ。これらは従来のアダンカルクブレンナーのメソッドには見られなかった点である。ヅィメルマンが、この著作を『ピアニスト兼作曲家の百科事典』と名付けたのは、あらゆる演奏技法と同時に、和声、対位法、楽器法など作曲理論についての知識が体系的にまとめられているからだと思われる。実際、ヅィメルマンとって、理想的なピアニストは演奏と作曲理論の双方を修めていなければならなかった。このことは、第3部の和声教程の序文に読み取ることができる。

我々の生きる時代、ピアノを弾くことしかできないヴィルトゥオーゾは、いくらか巧みに演奏しはするが、小学生としか見做されえないということになるだろう―もし、彼がこの実践的能力に、音楽の文法たる和声の知識を結び付けていないのだとすれば。幾許かの無知な人々は、自分には無関係な学問を尊大な軽蔑の念をもって扱い、いわゆる作曲上の誤りは人に聴かれはしない、いくらかの綴りの間違いは人に理解されないだろうという確信をもって前進しているが、綴り方を知らないということに一体だれが同意できるだろうか?[・・・]素人の耳と、玄人の真の耳には雲泥の差がある。庶民は言語の誤りを解さないが、音楽に無知な人間は、この点では庶民なのである。[...]要するに、芸術の目的は聴覚を満足させることであり、それを傷つけうるすべてのものに対抗することなのである※2

 ヅィメルマンは、ピアニストが技術的に優れているだけでは不十分で、和声を体得し、ある音楽を聴いたときに、その「誤り」を判別しうる程度に達する必要があると考えている。和声は、いわばピアニストの審美眼を鍛えるために必要とされたのである。さらに、ピアニストにとって和声の学習は次の点でも役立つと述べている。

[...] 和声学は、誰であれプレリュードをしたい、作曲をしたい、歌の下にバスを書きたい、あるパッセージを装飾したい、間違いを訂正したい、[曲の一部を]カットしたい、オルガンを弾きたい、スコア・アッコンパニュマンをしたいと思うピアニストにとっては、絶えず効果を発揮する。

 和声がピアニストにとっての基礎教養であるとすれば、フーガ書法の教程は、作曲の実践として位置づけられている(今日でも、フーガを書くには和声の学習が前提とされている)。フーガの書法は、一見、和声ほどピアノ演奏と関連がないように思える。しかし、バッハやスカルラッティなどのフーガ作品を弾く場合、どの声部に主唱が現れ、どの声部がこれに応ずるのか、あるいは主題がどのように拡大・縮小されたり組み合されたりしているのかを知らなければ、演奏の際、どのパートを抑えたり、際だてたりすればよいのか判断がつかないだろう。しかし、ヅィメルマンは、フーガの書法を演奏実践にのみ役立てようとは考えていなかったようである。彼はフーガの教程を「ピアニスト」という枠組みを超越し、作曲家という立場から執筆している。

現代の音楽作品には、フーガの厳格さはないが、どんな曲であれ、その仕上がりには、[フーガの]勉強をした大家の姿が見出される。私は[オベールの]《ポルティチの唖娘》の行進の合唱を例に挙げる。[・・・]この曲には、フーガのあらゆる条件がまとめられているが、ここでフーガの技法は、いわば作曲家と聴衆が気付かないうちに[さりげなく]用いられている。交響曲や四重奏といったある種の作品には、フーガの学習がいやおうなく求められる。そこでは、その主題を扱い、発展させる術を知ることがぜひとも必要なのである※3

 ヅィメルマンは、ポリフォニックな楽器であるピアノを通して演奏技術を習得し、和声に親しんだ生徒は、次なる段階として、ピアニストがピアノ曲に留まらず、合唱曲や室内楽、交響曲を作曲することを望んだのである。これらの言葉は、対位法の技法をいかんなく発揮した《荘厳ミサ曲》と《英雄レクィエム》の作曲者ならではの発言といえよう。

2.理想の具現者たち
Ch.-V. アルカン

 総合的な作曲能力を有するピアニストの教育を目指したヅィメルマンの門下からは、実際に優れた作曲家が輩出されている。シャルル・ヴァランタンCharles-Valentin Alkan (1813-1888) は、ヅィメルマンの理想そのものだった。彼はピアノで一等賞 (1824)、和声・アコンパニュマン(スコアをピアノで弾く科目)で一等賞 (1827)、オペラ作曲(ローマ賞コンクール)で次席 (1832)、更にはオルガン (1834)でも一等賞を獲得している。彼は対位法・フーガのクラスには在籍していなかったが、ヅィメルマンに師事してこれを学んだ。アルカンはピアノ曲以外に、オーケストラのための交響曲(未発見)、ローマ賞コンクールに際して書いた二つのカンタータ、万国博覧会作曲コンクールに際して書いた賛歌、弦楽四重奏の断片を残している。1848年にヅィメルマンの後任となるマルモンテルは、ピアノで一等賞を得たのち、和声および対位法・フーガでいずれも二等賞を得た。また、ルイ・ラコンブLouis Lacombe (1819-1884)は、31年にピアノで一等賞を得たのち、ヴィーンでゼヒターに対位法を師事※4し、帰国後、優れたピアニスト=作曲家として名を成した。

ルイ・ラコンブ

彼もまたピアノ以外に複数のカンタータ、交響曲、さらに晩年には弦楽四重奏を書いた。後年、オベールの後を継いで音楽院院長となるトマCharles-Louis-Ambroise Thomas (1811-1896) は、ピアノ、和声・アッコンパニュマンで一等賞 (それぞれ1829年、30年)、その後1832年にはローマ大賞を得た。トマは、その後、音楽院作曲科教授、またオペラ作曲家として名を成すが、マルモンテルが、「トマはショパンの作品を極めて感嘆すべき方法で演奏した」※5と述べているように、ピアニストとしても優れた才能をもっていた。

A. トマ

ヴィクトル・マッセFélix-Marie (Victor) Massé (1822-1884) は、ピアノ、和声、対位法・フーガ、オペラ作曲の全てにおいて一等賞を獲得して、オペラ作曲家としての経歴を歩んだ。ほかにも、ヅィメルマンの後任マルモンテルにピアノを師事したG.ビゼー(1838-1875)はヅィメルマンに対位法のレッスンを受けていた※6。先輩アルカンを敬愛したC. フランク(1822-1890)もまたピアニストとしてだけでなく、作曲家、オルガニストとして大成した。ヅィメルマンの義理の息子にあたるCh.グノーもまた作曲、ピアノ演奏に関してもろもろの助言をヅィメルマンから受けていたことは想像に難くない。もちろん、ここに挙げた作曲家たちの才能をすべてヅィメルマン一人に帰することはできない。

G. ビゼー

というのも、パリ音楽院では当時複数の科目を同時に履修することができたので、ピアノ科を在籍しながら、あるは在籍したあとで、作曲やオルガンのクラスに入学し個々の教授に師事するのが一般的だったからである。それでも、ピアノ科の学生の意識を演奏のみならず音楽のあらゆる側面へと向けさせる原動力を与えていたのは、ヅィメルマン教授であった。
 なぜピアノ科からこのような「総合的な音楽家」教育が打ち出されたかという点について考えるのは興味深い。この理由は、ピアノがあらゆるジャンルの音楽を再現できると考えられたていたからであろう。開発が進むにつれ1回の打鍵である程度音の持続が可能になると、ピアノは声楽的な旋律と伴奏を同時に再現することができた。
ピアノによる歌曲、すなわち「無言歌Romance sans paroles」と題されたピアノ曲はちょうど1840年代前後に多く書かれるようになった。

C. フランク

また、ピアノはオーケストラを再現できる唯一の身近な楽器だった。その可能性については、リストのベートーヴェン交響曲の編曲を思い出しさえすればよい。こうしたピアノの能力は、 裏を返せばピアノが様々なジャンルの音楽を書く際に大きな助けとなることを意味している。ピアノでオーケストラ作品を構想したり、書いたスコアの音をピアノで確認することもできる。ヅィメルマンの『百科事典』は、こうしたピアノの可能性を最大限に生かすために、その方法を具体的に著わした初めてのピアノ・メソッドであった。
 ヅィメルマンのピアノ教育の理想は、その後今日にいたるまで、パリ音楽院におけるピアノ伴奏科に受け継がれている。伴奏科は、スコア・リーティング、和声、演奏、伴奏、作曲といったあらゆる能力を要求することから、最も入るのが難しいクラスと考えられている。

パリ音楽院伴奏科教授を退任後日本に渡ったアンリエット・ピュイグ=ロジェ女史(1910-1992)はピアニスト、オルガニスト、作曲家、教育者としての才能を兼備した「完全なる音楽家」と呼ばれた。彼女は70歳を超えてなお一月の間にいくつも違う異なるプログラムでリサイタルを開くことができた。彼女の部屋には無数のオペラのスコアが並んでおり、女史はいくつものオペラをそらんじていて、様々な場面の音楽をいつでもピアノで弾くことができたという※7

今日の日本における音大のピアノ科では初歩的な対位法・和声を必修としている学校もあるが、筆者の知る限りそれほど高度な教育が行われているわけではない。また、幼いころからピアノだけに専念してきた学生のなかには、卒業を間近に控えた学生がベルリオーズの《幻想交響曲》を聴いたことがないという人が珍しくない。もっと著しい例では、ベートーヴェン交響曲がいくつあるか知らないということを耳にしたことがある。ヅィメルマンは、オーケストラ・室内楽のスコアをピアノで演奏する方法や、和声システムを学ぶことを通して、ピアノがいかに多くの可能性を発揮できるかを伝えようとした。録音のなかった当時の学生は、今日の学生以上の集中力とどん欲さをもってスコアを読み、それをピアノで弾くことによって身体に記憶させていたに違いない。そしてその新鮮な記憶は彼らの創作意欲をかきたてただろう。しかし、20世紀以降、ピアニストが作曲しなくなり、教育がステージでの演奏(とくに独奏)に特化していったために、教師・生徒はしばしばピアノを通して繋がることのできる豊かな音楽の世界にアクセスできなってしまった。だが、そのような今こそ、ヅィメルマンのようなかつての教授たちの声に耳を傾けることで、ピアノの可能性を再発見し、この楽器をもっと楽しむ方法を探究することができるようになるのではないだろうか。


  • Raoul Rochette. "Extrait du rappout de la section de musique de l' Institut au sujet de l'Encyclopédie de Mr. Zimmerman"in Traité d'harmonie, contrepoint et de la fugue of Zimmerman, (Paris: Chez l'Auteur), 2d ed. c.1841. [Paris, la Médiathèque Hector Berlioz, Mc 61822].
  • Zimmerman III, p. 1.
  • Ibid., p. 31.
  • Marmontel, Virtuoses comtemporains, (Paris : Heugel et fils),1882, p. 59.
  • Antoine - François Marmontel, Les pianistes célèbres, (Paris: Heugel), 1878, 2nd ed. 1888, p. 208.
  • Ibid.
  • Cf :船山信子著/編『ある「完全な音楽家」の肖像―マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの』 (東京:音楽之友社)、2003年。
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