ピティナ調査・研究

第28回 パリ音楽院ピアノ教授:ヅィメルマン その8 ―監察官時代(1848~1853)と最期

ショパン時代のピアノ教育
総監察官時代

 さて、教授を引退したのち、ヅィメルマンは総監察官という役職に就いた。当時の音楽院の規定によれば、教育の監督を行い、毎月院長に教育の状況をまとめた報告書を提出するのがこの役職の仕事だった※1。こうして、ヅィメルマンは、公的な場で直接生徒を指導する機会を失ったが、たびたびマルモンテルのクラスを訪れ、「そこに自身の伝統の権威がなおも存在しているのを認めていた」※2 。ヅィメルマンは、先に引用した辞表で「私が形成したフランスにおけるピアノの流派は以後も存続するでしょう」と述べていたように、32年間かけて確立したピアノ教育の伝統を常に誇りにしていた。
 ヅィメルマンが任ぜられたもう一つの役職、音楽教育委員会は、期末試験、入学試験、「音楽院に有益であると思われる措置の提案」※3に関する決定を行っていた。この「提案」には、音楽院で用いる教材の採用をめぐる提案も含まれ、ピアノの練習曲やメソッドもここで採用の可否が決定された。この点では、ヅィメルマンの影響力は必ずしも大きくはなかったにせよ、なおも、音楽院教育に及んでいたと言える。

晩年と最期

 1850年に音楽芸術家協会で決定されていた彼のミサ曲の上演は、翌年にその中止が報じられた。「この大家の健康状態が、ずっと前から構想されていた企画の実現を許さない」※4というのがその理由であった。しかし、彼の体調は、それほど深刻ではなかったようである。というのも、亡くなる前年の1852年には、オルレアン広場の自宅では演奏会が行われていたからである。この年の1月22日木曜日、ヅィメルマン宅にはマルモンテル、ラヴィーナルフェビュル=ウェリーラコンブジョゼフィーヌ・マルタンゴリアといった、かつての生徒たちが集まっていた。ヅィメルマン夫人の作った料理を食べながら、「ラヴィーナとルフェビュルはこの家の主人の生き生きとして機知に富んだ応答に対して、冗談を連発していた」※5。それに先立つ月曜にも、声楽科の生徒が彼の家を訪れ、ヅィメルマンの合唱曲を上演したという※6。それゆえ、それから亡くなるまでの一年余りの間に抱えていた病気が急速に悪化したと考えられる。
 1853年10月29日、ヅィメルマンは息を引き取った。10月31日に執り行われた葬儀には、多く芸術家たちが詰め掛けた。彼に学んだピアニストたち、音楽院の教授全員、学士院の会員たち、画家、彫刻家、文学者、その他一般の人々がここで一堂に会した。このことは、ヅィメルマンの人望の厚さを物語っている。ヅィメルマンの二人の娘婿、シャルル・グノーとエドュアール・デュビュフが先導する葬列には次のような人々が加わった。オベール (院長) 以下、アドルフ・アダンアレヴィ(作曲家、学士院会員)、ルボルヌ (作曲科教授)、バザン (和声・伴奏科教授)、エルツ、マルモンテル(ピアノ科教授)、デュプレ、パンスロン (声楽科教授)、その他すべての音楽院教授、著名な作曲家のトマ、マイヤベーア、フェリシアン・ダヴィッド、ヴィクトル・マッセ、ニーデルメイエール、台本作家のスクリーブ、音楽芸術協会創設者のテイラー男爵、批評家のモネ、オルガニストのラバ、ピアニスト=作曲家のE. ヴォルフ、ヅィメルマンの生徒だったヴィルトゥオーゾのラヴィーナ、ゴリア、コーエン、画家のドラクロワ、イザベイ、ブラカサ、ウィンターハルター等、その他文学者、彫刻家たち※7。ピアノ教師としての名声だけでなく、パリの芸術活動に対する献身的な努力が、芸術の分野を超えて、これらの人々を引きつけたのである。ノートル=ダム・ド・ロレット教会でヅィメルマンの《主イエスよ、憐れみたまえ》Pie Jesuを挿入したミサを挙げたのち、棺はオトゥイユ墓地に埋葬された※8。埋葬の際、テイラー男爵がヅィメルマンの経歴と功績を称えた弔辞を読み上げた。この弔辞は、数日後ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカル、ル・メネストレル、ラ・フランス・ミ ュジカル各紙に掲載され、ヅィメルマンの死が報じられた。
 彼が所有していた「膨大な書物、楽譜の版、手稿譜、ほとんどが音楽に関連した自筆文書」、「バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ラモー、ルソー、グレトリ等々の貴重な断片」※9、及び初期作品や手稿は、グノー、かつての弟子で生徒であったゴリアやルフェビュル=ヴェリー、ヴァイオリニストのヴュータンに託された※10が、これらがどのように今日まで伝わっているのかは明らかではない。また、前回の連載で述べたとおり、多くの蔵書が彼の没後、音楽芸術家協会に託された。
 ヅィメルマンの墓碑は、今日もなおオトゥイユ墓地で、グノー家のシャペルの向かいにひっそりと佇んでいる。昨年5月、筆者はここを訪れたが、墓碑の花壇には枯草の茎が寒々しく立ちすくんでいた。今では花を備える人もないようである。フランスにおける近代的なピアノ教育の礎石を据えるために多大な業績を残し、多くのピアニストを育てた博識の作曲家・ピアニスト・教育者ヅィメルマンの記憶は、風化しつつある。
 さて、ここまで8回にわたってパリ音楽院教授ヅィメルマンの軌跡を紹介してきた。次回から、いよいよ音楽院が目指したピアノ教育について、当時音楽院で使用されたヅィメルマンやアダンのメソッドや音楽作品を見ながら考えてみることにする。


  • Constant Pierre,. Le Conservatoire national de musique et de déclamation, documents historiques et administratifs recueillis ou reconstitués par l'auteur, Paris : Imprimerie nationale, 1900, p. 251.
  • Marmontel, Les Pianistes Célèbres, p. 208.
  • Constant Pierre,.op.cit., p.251.
  • "Nouvelles diverses" in Le Ménestrel, 2 November 1851, no. 49, p. 3.
  • "Semaine musicale" in Le Ménestrel, 25 January 1852, no. 8, p. 3.
  • Ibid.
  • Heugel[?]. "Zimmermann" in Le Ménestrel, 6 November 1853, no. 49, p. 2; Escudier[?]; "Nécrologie", in La France musicale 3 November 1853, no. 45 p. 357.
  • Escudier [?], "Nécrologie", in La france musicale, 3 November 1853, no. 45, p. 357.
  • Adolphe Leduy, "Biographie des artistes contemporains―Zimmerman" in La France musicale , 9 February, 1840, no. 6, p. 64.
  • Marmontel, Les Pianistes célèbres, p. 284.
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