第27回 パリ音楽院ピアノ教授:ヅィメルマン その7
《英雄レクィエム》の初演から僅か二年後、1848年にヅィメルマンは、ピアノ科教授を辞職する決意を固めた。彼が新しい院長F. オベール (1782-1871)に提出した辞表には、次のように記されている。
ヅィメルマンは、実際、既に充分な仕事をしたと考えて教授職を辞したのだろうか。彼は続けて次のように述べている。
もし、彼が音楽院を離れたくないのであれば、監察官や音楽教育委員にならずにピアノ教授を継続すればよかったはずである。それにもかかわらず、自ら辞表を提出した背景には、彼を辞職に追い込むような外的要因があったと考えられる。
マルモンテルは、ヅィメルマンが当時、周囲から何らかの圧力を受けていたことを示唆している。
この「とある助手」を特定するには詳細な調査を要するが、少なくとも1840年代後半に、ヅィメルマンは、一部の教授と不和があり、コンクールで自身の生徒が不利な立場に置かれることがあった、ということである。ヅィメルマンの後任候補には、その生徒だったマルモンテル、プリューダン、アルカンの名が挙がったが、最終的にこの職についたのは、卒業後、絶えず音楽院に務め、オベールの後ろ盾を得ていたマルモンテルであった。
ヅィメルマンの後継者争いは、候補者たちの人生を決定づける重要なポイントだった。候補者のうち、プリューダンとアルカンは、少なくとも作曲・演奏の双方において名声を確立していた。プリューダンは48年までに《12のジャンル・エチュード》作品16 (1844)や作品20番台の極めて華麗なコンサート用作品群を世に出し、国際的なヴィルトゥオーゾとして名声を確立していた。アルカンはほとんどパリを離れることがなかったものの、《騎士―コンサート・エチュード》作品17から《全長調による12の練習曲》作品35に至る前期の代表作を40年代次々に出版し、注目を集めていた。彼らはいずれもこの時までに音楽院コンクールに審査員として招かれていた。しかし、当時マルモンテルの名声は他の二人に比べれば地味なものだった。創作ではまだノクターンやワルツといったサロン用の小品、初心者用の練習曲集しか出版していなかった。 そのかわり、彼は二人とはちがって、36年以来ずっとソルフェージュ科に務めており、前委員長ケルビーニ没後、おそらく新しく院長に就任したオベールと信頼関係を築いたおかげで首尾よく選挙で票を得、音楽院ピアノ科教授のポストにおさまったのである。「落選組」のプリューダンは、教職につかなかったおかげでその後も63年に没するまでツアーピアニストとしての生涯を送る。プリューダンは、自分が教授に選ばれなかったことで不満を抱いたりマルモンテルに嫉妬することはなかったようだ。一方のアルカンは、落選でひどくプライドを傷つけられ、音楽院に不信感をいだくようになる。アルカンはこの一件から数年経たのちも、尊敬する学者F.-J.フェティスに無念を書き送っている。彼はこの事件のあと、創作は続けていたが、57年までは作品を出版しなくなった。音楽院のピアノ教育を決定づけたこの政治的な事件についてはいずれ稿を改めて詳しく書こうと思う。
- Paris, Archive nationale, AJ37 72, 4. p. 5.
- Ibid.
- Marmontel, Les Pianistes célèbres, p. 207.