ピティナ調査・研究

第25回『ヅィメルマン』その5 ピアニストは 「一流」の作曲家になれない?

ショパン時代のピアノ教育

 19世紀の優れたピアニストの中には、ピアノばかりでなくオーケストラ作品や室内楽、声楽作品を書く力量を備えていた作曲家が少なくない。同時代の一流ピアニストとしてその名が知られたファランク(1804-75)、アルカン(1813-88)、ヒラー(1811-85)、ローゼンハイン(1813-94)、リスト(1811-86)、L. ラコンブ(1818-84)などはみな生涯のうちにオーケストラや室内楽の領域で作曲を行った経験を持つ。彼らは、演奏技術はもとより楽器についての広範な知識・作曲技術を兼備した総合的音楽家だったのだ。ピアノ音楽の代名詞となって久しいショパンや、生涯のほとんどをピアノ作品に捧げたヅィメルマン門下の俊英プリューダン(1817-1863)、ラヴィーナ(1818-1903)、マルモンテル(1816-98)でさえ、協奏曲、室内楽で様々な楽器や声楽などのジャンルで工夫を凝らすことを楽しんだのだ。もし作曲しない今のピアニストがこんな環境に放り込まれたら一体どうやって名声を勝ち得るのだろうか?そう思えるくらい、つい一世紀半前の音楽界は今とは違っていた。

オペラの成功=作曲家の成功 ― 挑戦と挫折
P.-F.-J.ヅィメルマン(1832年)

世紀前半のパリ音楽院ピアノ科を代表する名教授ヅィメルマンもまたすぐれたピアニストにして作曲家だった。彼は対位法の大家・パリ音楽院院長L. ケルビーニ(1760-1842)に作曲を学び、ピアノ曲のみならずオペラ、宗教曲の分野でも作品を残している。彼の作品には練習曲集やソナタを含む少なくとも30曲以上のピアノ独奏作品のほかに、2曲のピアノ協奏曲、オペラ・コミック《誘拐》 (1830年初演)、グランド・オペラ《ノジカ》、1曲のミサ曲《荘厳ミサ曲》(1846)、壮麗な大オーケストラを駆使した《英雄レクィエム》 (1846) がある。
ピアニストがオペラを書くということは当時としては決して一般的なことではなかった。ピアノの訓練のほかに、和声や対位法、楽器法など幅広い教養を身につけるための環境と忍耐力が必要とされるからだ。それでも、ピアニストが当時のパリにおいてオペラを書くということには大きな意味があった。というのも、オペラで成功するということは社会的に「一流の作曲家」として認められることを意味していたのだ。ことにフランスの威信であるオペラ座で上演されるグランド・オペラでの成功は国益に直結するということもあって、当たりを出す作曲家の社会的地位はピアノ作曲家の比にならぬくらい高かったのだ。ピアニストのヅィメルマンは「作曲家」としての成功を夢見ていた。
ヅィメルマンが最初に書いたのはオペラ・コミックだった。全3幕からなる《誘拐》は1830年10月26日に上演された。この台本を彼に託したのは、マイヤベーアなど当時の主要オペラ作曲家の台本を数多く手掛けたスクリーブと、エパニEpagnyであった。しかし、このオペラの上演は満足のいく成功を収めることができなかった。その理由は、音楽ではなく台本のほうにあった。オペラ・コミック座の観客は、オペラの悲劇的な結末など期待していない。それにも拘わらず、このオペラは中世フランスのゲルフ党とギベラン党が対立して起こった「血なまぐさく悲痛な挿話」※1に取材しており、到底オペラ・コミックというジャンルに相応しい内容ではなかった(あの有名なビゼーの《カルメン》も同じ理由でオペラ・コミック座での初演は失敗に終わっている)。むしろ、この種の歴史的な題材は、グランド・オペラとしてオペラ座で上演されるべきものだったのである。それでも、聴衆は筋書きには我慢し、ヅィメルマンの音楽の美点を賞賛したのだという。ヅィメルマンは、その後二作目のオペラ、《ノジカ》Nausicaを作曲した。今度の作品はパリオペラ座で上演するためのグランド・オペラで、成功すれば「一流作曲家」の道が開けるはずだった。しかし、オペラ座の審査員がこのスコアを許可したにもかかわらず、何らかの理由でこの作品は上演される機会はついに訪れず、今日まで手稿譜のまま残されている。前述の通り当時他の器楽奏者と同様、ピアニストは音楽界では決して社会的に高い位置にはなかった。ヅィメルマンのこうした挫折の背景には、一器楽教授がより上位の「作曲界」に入ろうとすることを妨害しようとする政治的圧力があったとしても不思議ではない。

宗教曲で再度の挑戦

オペラが思うように成功しなかったためか、しばらく彼は40年代の終わりまでピアノ以外のジャンルから遠ざかる。再び作曲への意欲に火がついたのは1840年代半ばのことだった。その時彼が目を向けたのは、オペラではなく宗教曲というジャンルだった。これは「作曲家」のステイタスを獲得するための二度目の挑戦となった。最初に彼が手がけた宗教曲は《荘厳ミサ曲》である。オーケストラとソプラノ、アルト、テノール、バスのために書かれたこの作品は、ベルリオーズのレクィエムなどが初演されたサン=ウスタシュSaint-Eustache教会で1845年11月22日に初演された。ヅィメルマンは知人や生徒に多くの招待状を送っていたので、教会には多くの人々が集まった。右図は《荘厳ミサ曲》の表紙である。作品は音楽院作曲科教授アレヴィに献呈されているが、米国議会図書館所蔵の楽譜には、表紙上方におそらくヅィメルマンの自筆で「スポンティーニへのオマージュ」と記されている。彼がスポンティーニに個人的に献本したのだろうか。
翌年の4月5日、パリ音楽院演奏協会は、このミサ曲から〈サンクトゥスSanctus〉のみ再演した。前年に、サン・ウスタシュ教会でこの作品を聴いた音楽院関係者が、音楽院演奏会で取り上げることを決めたのである。パリ音楽院演奏協会は、1828年に創設されて以来、ベートーヴェン交響曲を中心としたドイツ・オーストリアのオーケストラ曲を頻繁に演奏し、フランスにおける交響的作品のカノン形成に強く貢献していた。「過去の大家」たちの作品を集めた「音楽のルーヴル」※2においては、同時代の交響曲が演奏されることは稀であったが、それには険しい採用過程を切り抜けねばならなかったからである。同様に、ミサ曲のような古典的ジャンルの作品も、同時代の作曲家の作品が演奏されることは稀で、ヅィメルマンのミサ曲が演奏される以前にこの演奏協会で上演されたのは、もっぱらベートーヴェン、ハイドンモーツァルト、ケルビーニの作品であった。「大家」たちの作品と肩を並べて、ヅィメルマンの第一ミサ曲が演奏協会で上演されたことは、彼の作曲家としての地位をアピールする格好の機会となったはずだ。
彼の2作目の宗教曲はオーケストラと合唱のための大作《英雄レクィエムRequiem Héroïque》で1846年11月5日に初演された。三日後の11月8日にはRGMに作品批評が掲載された。ブランシャールは、この作品に見られる様式の折衷主義を独創性の欠如として批判しつつも、その堅実な作曲法を称賛している。但し、これはスコアに基づく批評ではない。

[・・・]創造性という観点ではまだ十分ではなく、また古典的着想の率直さも、ロマン的着想の大胆さもなくして両者の間を行く一種の中道的性質があるにせよ、これは優れていて、よく考えられており、会衆に効果を与えうる作品で、声楽書法が優れ、色鮮やかにオーケストレーションされている。それゆえ、この作品は作曲者に、幸福な評判をもたらすはずである。物憂げな宗教的感情が刻印されたモーツァルトの《レクィエム》と劇的なロッシーニの《スタバト・マーテル》の間で、これ以上のことができるだろうか※3? [...] 彼の楽器の音響効果は、あまりにも完璧な知識に根差している。つまり、彼は、金管楽器の様々な音を計算することによって生まれる、風変わりな不協和音を多くは求めていないのだ※4

この記述は、ヅィメルマンがベルリオーズほどは大胆に楽器を扱っていないにせよ、優れたピアニスト、ピアノ教師である彼が、オーケストラを「完璧に」扱うことのできる能力のある作曲家として認められたということを示唆している。
《英雄レクィエム》は、1849年に二度目の上演が行われ、4月1日にRGMに再び批評が掲載された。初演時の批評とは対照的に、この記事ではスコアに基づく、細部に批評及ぶ批評がなされている。記事の著者であるモーリス・ブルジュは、ブランシャールとは対照的に、モーツァルト、ケルビーニ、ベルリオーズを引き合いに出して、折衷主義を肯定的に認めている。

言葉[典礼のテクスト]の精神を忠実に翻訳する必要性は、パレストリーナ風の手法や、モーツァルト、ヘンデルのフーガ様式だけで満足することをゆるさない。その必要性は、世俗の芸術の介入、すなわち情熱的な旋律や、世俗的な和声の激しい効果、オーケストラの色彩豊かな楽器の組み合わせの使用を喚起し、要求する。昔の様式の厳正な言語の中で、この散文を完全に、人間的で肉体的な情熱で全く生き生きしたものにすることは不可能だということは、今や明白である。大家たちもまた、テクストの抒情的な解釈が要求に応じて世俗芸術から、あらゆる借用を行うことを決してためらわなかった。※5

実際、この《英雄レクィエム》には、軍楽、ワルツ、厳格対位法による楽章が並置されている。この作品の第2楽章〈ディエス・イレ〉では、聖歌旋律が6声の合唱、オルガン、オーケストラを用いて、厳格対位法で作曲され、また第6楽章〈オッフェルトリウム〉にはフーガが展開される。
こうした古典的でアカデミックな書法とは対照的に、続く第3楽章〈リーベル・スクリプトゥス〉は世俗的なワルツによっており、第7楽章の〈サンクトゥス〉では、トランペットのファンファーレが壮麗に響き渡る。このような様々な様式を取り入れて作曲された《英雄レクィエム》は、ヅィメルマンにとって、舞曲、軍楽、ケルビーニに師事して習得したアカデミックな厳格対位法の書法など、様々な様式で作曲する能力を公に示す場となったのではないだろうか(右図は《英雄レクィエム》の表紙)。以下に示す譜例は、《英雄レクィエム》の第6楽章〈オッフェルトリウム〉におけるフーガの導入部部分である。フーガをなす声楽パートに対位法的に処理された弦楽パートが加えられている。

21年の作曲科教授選抜試験に合格しているだけあって、このような箇所には厳格な書法を自在に操る傑出した能力の片鱗がうかがわれよう。これら一連の宗教曲は彼にとってどのような意味があったのだろうか。次回は作曲家ヅィメルマンがこれらの作曲活動に込めた意図を探ってみよう。

譜例:《英雄レクィエム》第6楽章〈オッフェルトリウム〉フーガの出だし

  • J.-B. Labat, "Zimmerman et l'école française de piano", in Courrier de Tarne-et-Garrone, 4 and 7 February, 1865, p.7.
  • D.Kern Holomanの言葉。Cf. D.Kern Holoman The Société des Concerts du Conservatoire 1828-1967, Berkeley (University of California Press), 2004, p. 109.
  • Henri Branchard "Requiem Héroïque par Zimmerman" in RGM, 8 November 1846, pp. 353-54.
  • Ibid., p. 354.
  • Maurice Bourges"Requiem Héroïque, par Zimmerman―Deuxième exécution"in RGM, 1 April 1849, p. 100.
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