第22回 19世紀前半、パリ音楽院のコンクール ―フルート奏者がピアニストを審査する!?
今回は、前回に引き続き、19世紀前半におけるパリ音楽院のコンクールが話題である。すでに述べたように、フランスにおける対位法の大家、ケルビーニが1822年に音楽院院長に就任してから、ヅィメルマン・クラスの受賞者数は飛躍的に増加した。それは、音楽院の規定によって受賞者人数の制限が明示されなくなったからであった。しかし、前回示したデータは、単にすぐれた生徒が増えたことを意味していたのだろうか?この問題に取り組むには、まずケルビーニ在任期間 (1822-42)中のコンクールでは、誰が、どのような評価基準で審査を行っていたのかを考えなければならない。しかし当時の音楽院では、審査員の編成は口頭で伝えられていた。記録は残っておらず※1、誰がコンクールの審査をしたのかは知り難い。審査員の選出方法や賞の決定方法は、1841年にようやく明文化された。そういうわけで、誰が、どのような基準で審査をしていたかを詳細に検討することは断念しなければならない。
しかし、断片的ではあるが、雑誌『ル・ピアニスト』Le Pianisteに掲載された1834年のコンクールの結果を報じた記事※2は、1830年代の審査員の編成及び審査基準を知る手掛かりを与えてくれる。前回の「図1」を見ていただければ分かるが、この34年という年は、27年、38年に並んで、最も多くの受賞者が出た年である。
このコンクールを傍聴した同紙の記者は、まず、審査員に関する問題点を挙げたうえで、審査員の顔ぶれを我々に伝えている。以下に引用するのは、「誰がコンクールで審査を行うべきか?」と題されたセクションの一節である。
ホルン奏者を審査するピアノ奏者
ヴァイオリンを審査するオーボエ奏者
このような異論は新しいものではなく、この種の問題に関して公正で判断力のある人々によって我々以前にもなされてきたのである。音楽院側は、彼らに対して、音楽的感性はどの楽器でも同じだ、と答えてきた[・・・]。※3
この記述から、当時のコンクールの規則では、審査団には音楽院のピアノ教授は含まれていなかったことがわかる。ピアノの審査団には、音楽院以外のピアニストが一人含まれているにすぎないのである。さらに、審査員入場の模様が以下のように描写されている。
その後に6名の審査員が続いた。その中にはフランスの優美な作曲家、パンスロン、そして最後に密書によって招かれたピアノ審査団で唯一のピアニスト、ベルティーニの姿が認められた※5。
ベルトンは1818年から音楽院作曲科教授、パエールは1831年に学士院会員となり、この34年から音楽教育監察官という地位にあった人物である。以上の記述から、ケルビーニ時代の審査団は、院長のケルビーニを長として、音楽院作曲家教授を含む著名な作曲家及びフルート奏者、その他関係者を含め、計9名によって構成されていたことが分かる。このように、音楽院のピアノ科教授を審査団から外すことによって、ある特定のクラスだけがピアノ教授によって贔屓にされるという事態は避けられていたのだ。
さて、このような審査員たちは、審査の結果、コンクールに挑んだ全6名中、なんと全員に賞を与えたわけだが、この結果は、音楽院の部外者であるこの記者の目には、どのように映ったのだろうか?この記者は、同記事の中で、コンクール参加者に対する独自の演奏評を掲載している。以下にコンクール参加者全6名の演奏評を引用する。なお、この年のコンクールで演奏された課題曲はヴェーバーの作品であるが、作品名は明示されていない。コンクールでは、生徒に課題曲演奏と初見演奏が課された。6名の参加者の顔ぶれは以下の通り。アルカン※6Maxime Alkan、ルフェビュル=ウェリーLefébure-Wely、パドルーJule Pasdeloup、ゴリアAlexandre Goria、プティAnatole Petit、ラヴィーナHenri Ravina。このときには男子クラスはヅィメルマンのクラスしかなかったので、皆、彼の生徒である。
我々の期待に反して、初見のできは悪かった。
このコンクールの結果は以下の通りとなった。
二等賞:ルフェビュル=ウェリー、ゴリア、プティ
この結果と記者の講評を対応させると、一等賞の受賞者の演奏が、一様に秀逸ではなかったことが分かる。一等賞の中で最も高い評価を受けているのはラヴィーナであり、技術的な完成度及び初見能力の高さが一等賞の受賞の根拠となっていることは明らかである。パドルーは、音楽的才能を認められているが、演奏の粗雑さが批判されている。ティンパニ奏者との類比は、乱暴な打鍵に対する批判であろう。一等賞受賞者3名の中で、最も低い評価を受けているのはマキシム・アルカンである。彼は、オクターヴの演奏以外に美点が認められていないにもかかわらず、一等賞を得ている。
二等賞受賞者のうち、最も評価が高いのは11歳のゴリアであり、将来性が高く評価されているが、初見演奏の評価は低い。一方、ルフェビュル=ウェリー※7は逆に、初見演奏に秀でていたが、演奏にむらがあるという高くない評価を受けている。二等賞受賞者で、ピアノ演奏、初見演奏ともに芳しくない評価を受けているのはプティである。
このように、一等賞、二等賞の中でも、かなり生徒の音楽的能力には差があったことが分かる。記事の著者審査基準の甘さが音楽院の権威を貶めるとして、この結果を次のように判断した。
受賞者の増加に対する批判を掲載した雑誌は、『ル・ピアニスト』ばかりではなかった。ジュルナル・デ・デバ紙は、この年の音楽院コンクールの結果を報じる記事で、ピアノ科の受賞者について次のように報じている。
数いる[コンクール参加者の]なかでも、実際、ラヴィーナ氏が他の参加者と区別されるべきだった。彼はグランジュ嬢と同じくらい一等賞に相応しく、大変な大ピアニストである。また、まだほぼ子どものもう一人の生徒、小さなゴリアも[他の参加者とは]区別された。このことは、ラヴィーナが一等賞をアルカン三男、パドルー各氏と分け合うことの妨げにはならなかったし、また、小さなゴリアが二等賞をアナトール、ルフェビュル各氏と分け合う妨げにはならなかった。こうして、ヅィメルマン氏が紹介した6名の生徒に関して、6名が賞を受けたのである。いまこそ、さっきの老管理人huissierと共に叫ぶ時である。「みんな来たまえ!みんなだ!」。
『デバ』紙の記者も、『ル・ピアニスト』の記者と同様に、ラヴィーナとゴリアが他の参加者と比べて秀でていたにもかかわらず、コンクール参加者全員に賞が与えられるという審査基準の甘さを批判している。実際、ケルビーニ時代のヅィメルマン・クラスは受賞者数が増加しただけではなく、受賞する確率も高くなっていた。以下に示すのは、ケルビーニ時代における、ピアノ男子クラスのコンクール参加者に対する受賞者の割合である。このグラフから、ケルビーニが院長を務めた1822年から42年の間、この割合が50%を切ったのは、わずか三度しかなかったことが分かる※9。
ケルビーニ自身、このような実情に対して巻き起こる批判を肌で感じていた。ケルビーニに対して、コンクールの公正さに疑念を抱く音楽院関係者から匿名の手紙が届いていたのである※10。これは必ずしもピアノ科が問題にしているわけではないが、1839年に届いた手紙に対して、ケルビーニは「この手紙の意見は考察の対象とならない[・・・]音楽院のコンクールは極めて規則正しく、できる限り公正に行われている故である」とコメントしておりあくまで審査の公平性を強調した。
このように、音楽院のコンクールは、気前よく賞を出しすぎる傾向にあったようである。ヅィメルマンは、作曲に関してケルビーニの愛弟子であり、この院長がヅィメルマンを贔屓にして彼の生徒たちに多く賞を与えたという可能性もある。
ケルビーニ時代の音楽院コンクールが、いくらか公正を欠くものであったにせよ、優れたピアニスト=作曲家がヅィメルマン・クラスから輩出されたのは、まさにケルビーニ時代においてであった。今回名前の挙がったラヴィーナ、ゴリア、ルフェビュル=ウェリーをはじめ、長男アルカン、M.マルモンテル、E.プリュダン、L.ラコンブ、A.ビレなどは、この時期に音楽院で教育を受けた才人たちである。彼らはいずれも19世紀フランスのピアノ音楽史の中で独特な地位を占めうるピアニスト(/オルガニスト)=コンポーザーであり、いずれ作品とともに、彼らを紹介していく積りである。
- Frédéric de La Grandville, "Le Conservatoire de musique de Paris et le piano depuis la création de cet établissement jusqu'au milieu de XIXe siècle, Université de Paris-Sorbonne, 1979, p. 237.
- "Concours du Conservatoire de musique" in Le Pianiste, ( Meudon: Imprimerie de J. Delacour), 1834, no.11, n.d. pp.161-169. ここではミンコフのリプリント版(Genève : Minkoff, 1872) を参照した。記事の著者は不明。
- Ibid., p.163.
- これらはいずれも有名な当時有名なオペラのタイトルである。
- Op. cit., p.164
- PTNAのHPの連載で森下唯さんが扱っている最も著名なアルカンCharles Valentin Alkan (1813-1888)ではないことに注意されたい。マキシム・アルカン (1818-1891) はヴァランタン・アルカンの弟である。アルカン家の子供たちには、長女セルスト(1812-1897)、長男ヴァランタン、次男エルンスト (1816-1876)、三男マキシム、四男ナポレオン (1826-1906)、五男ギュスターヴ (1827-1882) がおり、全員がパリ音楽院に在籍していた。
- 彼はオルガン・クラスにも在籍しており、この年にオルガンの二等賞を獲得している。批判されている「指の弱さ」はオルガン練習に由来すると考えられる。彼は当時、既にサン=ロシュ教会Saint-Rochのオルガニストを勤めていた。
- R.[?], "Concour du Conservatoire" in Journal des débat politiques et litteraires, 11 August 1854, p.2.
- 42年のコンクールの時には、ケルビーニはすでに亡くなっていたので、数には入れていない。
- F. de La Grandville, op. cit,, pp.238, 239.