第6回 アダン後の2人の名ピアノ教師―ヅィメルマンとカルクブレンナー
前回に挙げたショパン世代(1810年代?20年代生まれの世代)のピアニストたちに辿り着くには、もう少々回を重ねる必要がある。というのも、L.アダン (1758-1848) の次の世代に位置する18世紀生まれのピアニスト・作曲家に触れておかなければならないからである。この世代の主要なピアニスト・作曲家は、19世紀最初の20年間に誕生するピアニストたちを教育したという点で重要である。今回は、パリで活躍した二人の名教師にして名ピアニスト、カルクブレンナーFrédéric Kalkbrenner(1785-1849)とヅィメルマンPierre-Josef Zimmerman(1785-1853)を取り上げる。
アダンが、その《メソッド》によってフランス近代ピアノ奏法の礎を築いたのだとすれば、この二人はそれぞれ独自の仕方で19世紀のピアノ演奏技法を展開し、その未来を方向付けた重要人物である。彼らは奇しくも同じ年の生まれで、 ともにパリ音楽院に学び、パリで著名なピアニスト、教師として活躍した。カルクブレンナー(図1)はドイツに生まれ、1799年から1801年にかけて、パリ音楽院でアダンにピアノを師事した。一方のヅィメルマン(図2)は1798年にパリ音楽院に入学し、ボイエルデューに師事した。彼は1800年にライヴァルのカルクブレンナーを凌いでピアノの一等賞を得た新進気鋭のピアニストであった。カルクブレンナーが一等賞を獲得したのはその翌年のことである。しかし、両者の経歴は、いくぶん性格が異なる。カルクブレンナーがその後、ヴィルトゥオーソ・ピアニストとしての経歴を重ねたのに対し、ヅィメルマンはそのような華々しい道よりも、いっそう慎ましやかなパリ音楽院におけるピアノ教育者の道を選んだ。それゆえ、ヅィメルマンの作品数はカルクブレンナーに比べてはるかに少ない。だが、彼が1816年から1848年の32年の長きに亘ってパリ音楽院ピアノ科教授を務めたことにより、19世紀前半のフランスでは多くの優れたピアニスト・作曲家が育成されることになった。
もっぱら師事関係という点のみに着眼すれば、この二人は19世紀フランスのピアノ演奏伝統において、二つの主流を創出したといえる。ヅィメルマンは長らく音楽院で教えていたので、弟子の数は多く、約120名を数える。彼が音楽院以外でも私的なレッスンを行っていたことを考えれば、彼の教え子の数はさらに増えるだろう。
音楽院のヅィメルマン門下には、 今日ではその名がほとんど忘れられてしまった優れたピアニスト・作曲家たちが存在している。中でも有名になった生徒には、多量のオペラ・パラフレーズを書いたローズランHenri Rosellen(1811-1876)、古典音楽の守護者であると同時にピアノ上で様々な新実験を試みたアルカン家長男のCharles Valentin Alkan (1813-1888)、音楽院でヅィメルマンの後を継いだマルモンテルAntoine François Marmontel(1816-1898)、タールベルク譲りの優美な旋律を特徴とするEmile Prudent (1817-1863)、オルガニストとしても有名になったLefébure-Welly(1817-1869)、高雅で気品溢れるサロン音楽と多数の秀逸な練習曲を書いたHenri Ravina(1818-1906)、今日でも有名なCésar Franck (1822-1890)、積極的に効果を狙った多数のサロン音楽と、優れた練習曲集を書いた夭折のヴィルトゥオーソAlexandre Goria (1823-1860)、後に音楽院でソルフェージュ科教授を勤めることとなるアルカン家の4男Napoléon Alkan(1826-1906)などが挙げられる。個々の作曲家についてはいずれ詳述する考えなので、ここでは彼らの名前を列挙するにとどめておく。ピアニストの道は選ばず、オペラ作曲家として成功を収めたヅィメルマンの弟子には、マッセVictor Massé(1822-1884)、後の音楽院教授トマAmbroise Thomas(1811-1896)がいる。マルモンテルによれば、トマはピアニストとしても優れ、ショパンの作品を見事に演奏したという。
その具体的な人数を調べるのは困難だが、彼は1830年代にはパリでもっとも有名なピアノ教師であった。彼の優れた弟子としてオズボーンGeorge Alexander Osborne (1806-1893)、スタマティCamille Marie Stamaty (1811-1870)、プレイエル夫人Marie Moke Pleyel (1811-1875)、マティアスGeorges Matias(1826-1910)の名前が挙げられる。オズボーンはカルクブレンナーの助手を務め、彼の教育方針を普及させるのに尽力したピアニスト・作曲家である。プレイエル夫人は、有名な楽器製造業者イニャース・プレイエルIgnace Pleyel(1757-1831)の息子と結婚したピアニストで、作曲家ではなかったものの、秀でた音楽家として有名であった。
話は脱線するが、プレイエルと結婚する前、彼女は自身にギターを教えていたベルリオーズと婚約していた。だが、ベルリオーズがローマ賞を得てイタリア留学している隙に、彼女はカミーユ・プレイエルと結婚してしまう。これを知って憤激したベルリオーズは、ピストルを手に留学規定を犯して国境を越え、新婚夫婦と新婦の母を殺害し、自身も命を絶とうと考えたが、何とか南仏のニースで思いとどまったという、何ともどろどろしたロマンスがある。
残りの二人の弟子、スタマティとマティアスは、カルクブレンナーの教えを後の世代に伝えたピアニスト・作曲家としてとりわけ重要である。ギリシア系フランス人のスタマティは、その演奏を聴いたカルクブレンナー認められて彼の愛弟子となり、やがて師の片腕として活躍した。スタマティは、師の教えが色濃く反映された60年代の《指のリズムLe Rythme des doigts》と題された緻密で体系的メソッドを編んだ。作曲家としては、傑出した技巧を含むいくつかの練習曲集、二曲のソナタ、その他サロン用作品、パリ音楽院の演奏会曲目を題材にした一連のパラフレーズ作品を残している。スタマティは、カルクブレンナーの教えをサン=サーンスに伝えた。サン=サーンスの《指の独立のための練習曲 作品52-2》(1868)は、スタマティを介したカルクブレンナーの流儀を踏襲しているとみることができるだろう。その他のスタマティの優れた弟子には、国際的に活躍した名手ゴットシャルクLouis Moreau Gottchalk(1829-69)がいる。
マティアスはカルクブレンナーの弟子というよりは、ショパンの弟子としてのほうが有名であろう。彼は30年代にカルクブレンナーに師事した後、38年にはショパンにつくようになった。その後1862年から87年までパリ音楽院ピアノ科の教授を務め、ショパンとカルクブレンナーの伝統をこのアカデミックな機関に導入した。ヅィメルマンの後任のピアノ科教授、マルモンテルも、彼の演奏にカルクブレンナーとショパンの演奏流儀を同時に認めている。マティアスはまだ子供の時分から、クララ・シューマンをして「第二のリスト」と言わしめたほど、ピアノ演奏に秀でていた。作曲家としては、ピアノ独奏曲、協奏曲のみならず、トリオを始めとする室内楽、交響曲と、多岐に亘って作曲している。彼についてはいずれ詳しく書こうと思うので、彼の説明はこれくらいに留めておこう。
今回はアダンの次の世代にあたる教師を二人ピックアップし、その後の系譜を大雑把に見てきた。ところで、彼らのピアノ教育の内実はどのようなものだったのだろうか。ピアノの改良速度が加速する30年代、彼らはどのようにそのスピードに対応し、次の世代を教育したのだろうか。次回は、まず、カルクブレンナーの教則本《手導器を用いたピアノ・フォルテ学習のためのメソッド Méthode pour apprendre le piano forte á l'aide du guide-main 》(1831)を手掛かりに彼の「教義」を垣間見てみたいと思う。