第3回 アダンの《音楽院ピアノ・メソッド》2:理想のピアニスト
アダンたちが見出していたピアノの可能性は、同時に、未来を担う音楽家の可能性でもあった。彼らがピアノ教育に望んだのは、単にピアノ演奏のメカニズムを習得することではなかった。《メソッド》の序文に先立って、当時の音楽院院長サレットSarretteがこのメソッドに寄せた、音楽院総会におけるメユールの報告は示唆的である。
ここには、メカニズムに加え、クラヴサンではなくピアノを通して音楽的表現力を会得することの重要性が示されている。事実、序文冒頭にはアダンがピアノの表現力がクラヴサンに勝ると考えていたことが読み取られる。
実際、この《メソッド》では、指使いのメカニズムを学ぶ第5項の後に、グルックやハイドン、自作品からなる指のための50の練習曲集(様々な様式の舞曲が含まれ、様式表現の習得も意図されている)、スラーやスタッカート、装飾音といった様々なニュアンスを学ぶ第8項の後にはJ.S.バッハ、D.スカルラッティ、C.P.E.バッハ、モーツァルト、ハイドン、クレメンティの序曲やメヌエット、ソナタ、フーガ、その他の小品が収められている。いわば、多様な音の表現を獲得したピアノによって過去に書かれた作品を再解釈することがこの《メソッド》の主眼であると言えよう。
上の引用にみられる今ひとつ重要な点は、ピアノによって他の楽器、あるいは歌の「ニュアンス」の表現が可能になった、という認識である。これは、ピアノが伴奏楽器という枠を超えて、いっそうの自律性を獲得したことを示している。アダンは他の楽器に依存することなく、ピアノ一台で声楽やオーケストラを再現できるというピアノの特長を随所で強調している。例えば第6項「ピアノのタッチの方法と音の出し方」で、アダンは歌の表現について以下のようにのべている。
ここで言われている歌とは、「歌うような旋律」の意である。ピアノ奏法のメカニックな側面は、専ら音楽の表現を目的とした手段であるという認識がここから読み取られる。
また、オーケストラの代用としてのピアノのメリットは第11項「スコア伴奏法について」に明示されている。
この第11章の「スコア伴奏」とは、オペラなどオーケストラ・パートを、ピアノでスコアを見ながら演奏することである。伴奏楽器としてのピアノには、このように新たな可能性が見出された。伴奏という範疇のとどまっている点、いまだ自律性を獲得したとは言えないかも知れないが、ピアノでオーケストラを再現する可能性は、後にピアノ一台で交響曲や協奏曲、オペラの再現・再創造に成功する次世代のピアニスト・コンポーザーたち、すなわちリストやアルカン、クリューガーといったショパン世代のヴィルトゥオーソによって一気に開花される。
ちなみに、この第11項には、スコアを即興的にピアノに変換する方法がいくつかの譜例とともに示されている。このピアノによるスコア・リーディングの習慣とその手法は、一方では既存のアレンジから転用され、他方ではオーケストラ曲のアレンジやパラフレーズ、あるいはトランスクリプション、さらにはオリジナルのピアノ作品のシンフォニックな書法に応用されていった。
以上のように、アダンはピアノ教育の究極的な目的を演奏の技術的の向上ではなく、総合的な音楽能力の育成に見出していたと考えられる。彼は、第6項で次のように述べている。
ここで、いかに論理では説明しがたい感性の側面が重視されているかが理解されるであろう。さらに同じ項目で、彼は音楽の目的を次のように規定する。
音楽院のピアノ教育において重要視されたのは、感性を磨くことであって、さまざまな演奏のメカニズムは優れた感性を磨き上げるための手段であると考えられていたことが、ここからはっきりと読み取ることがでよう。1805年の時点で、パリ音楽院における理想の生徒とは、ピアノにかんする知識やピアノ演奏のメカニズムをよく理解し、習得することによって音楽的感性を洗練させる生徒であった、といえるだろう。
19世紀初期に音楽院で用いられたこのメソッドは、愛好家のための入門書と言うよりは、プロの音楽家のためのものであり、これが音楽院で正式に採用されたということは、後のフランス・ピアノ界を担う音楽家たちを方向付けたといってよい。その意味で、アダンはフランスの近代ピアノ教育における草分け的存在なのである。
上田泰史