第1回 パリ音楽院:近代ピアノ教育の夜明け
序文で述べたように、ピアノという楽器は19世紀の間に飛躍的な進化を遂げた。楽器の進化は必然的に、ピアノを弾き、そのために曲を書く音楽家の創意を掻き立てた。すると、音楽教育機関においても、新しい楽器への対応マニュアル、すなわち教則本の必要性が生じてきた。楽器開発の可能性が多分に秘められていたこの時代、今日の我々が受けるような紋切り型のピアノ教育は当然存在せず、むしろ未整備のピアノ奏法をいかに論理化し、体系化するか、ということにピアニスト、教育家、作曲家たちは想像力をたくましくしたのである。このようなピアノに対する創意は、当然のことながら、ピアノ作品そのものにもダイレクトに反映しているが、とはいえ、この数回は、メソッドと教育に的を絞ることにしよう。最初の数回は、ショパン世代よりは少々さかのぼるが、フランスにおける初期ピアノ教育という視点から、同時代の人々が新興の楽器、ピアノの奏法をどのように捉えていたのか、概観する。
19世紀におけるピアノ音楽の中心地はいうまでもなく、パリであった。パリの磁力はヨーロッパ中から優れたピアニストたちを引き寄せたが、その磁力の中核にあったのはパリ音楽院のピアノ科である。革命期の軍楽隊養成学校と王立歌唱学校から発達したパリ音楽院では、1800年から1814年の間に、種々の楽器のための公式メソッドが委員会によって採用され、教育に役立てられるようになった。
ピアノ科といっても、これは音楽院創設当初から存在したわけではない。当時、鍵盤楽器の典型はフォルテ・ピアノというよりはむしろクラヴサンであり、1784年以来、ゴベールL. G. J. Gobertが音楽院のクラヴサン教育に携わっていた。音楽院でピアノがクラヴサンと並行して教えられ始めたのは1795年のことで、男子クラスではモンジェルー女史H. de Montgeroult、グラニエGranier、セジャンSéjan、モザンB. Mozin、ゴベール、女子クラスではジャダン兄弟の弟H. Jadinの6名が教鞭をとった。1796-97年の間に新たにピアノ専門の教師が5人雇われ、98年にはジャダンとゴベールがピアノを専門に教えるようになった。(手元の複数の資料の記述が一致しないため、その5人が誰を指すのかは今のところ不明である。)こうした18世紀末のピアノ科の動向は、明らかにピアノという新しい楽器への関心の高まりを反映している。パリ音楽院において、いかに急速にピアノ教育の足場が固められたかがわかるであろう。
しかし、ピアノという楽器が飛躍的に進化をとげ、楽器への関心が急速に高まったとはいえ、この楽器のためのレパートリーが大量に書かれ始めるのは1820-30年代頃、すなわち1810年代生まれのショパン世代に至ってからのことである。したがって、18世紀末から19世紀初期にかけてはクラヴサンのレパートリーがピアノのレパートリーの大部分を補っていた。クラヴサンのレパートリーを演奏するためには、当然、前世代のクープランやラモーのクラヴサン教則本が有効であったことは想像に難くない。しかし、いまやクラヴサンにはありえなかった様々なニュアンスやダイナミクスを可能にしたピアノには、必然的にピアノ固有のメソッドが必要とされた。ピアノのフォルテ・ピアノのメソッドは個別にはいくつか存在してはいたものの、音楽院で正式に採用されるピアノのメソッドは、アダンLouis Adam(1758-1848)の《音楽院ピアノ・メソッドMéthode de piano du Conservatoire》を待たねばならない。
上田泰史