ピティナ調査・研究

ピアノ教室を法人化 経営者からの3つのアドバイス

2017年教室を法人化。

弛まぬ研鑽と着想でクラシックピアニスト・作曲家へ転生した、元バンド少年

バンドマンからクラシック演奏家へ、そしてピアノ指導者へ

 端的に言うと「小室哲哉になりたい!」が最初の原動力でした(笑)。幼い頃からピアノは習っておりそれなりに器用に弾けていましたが一度離れ、その後中学生時代の小室哲哉ブームに乗って鍵盤楽器に戻りました。自分としては音楽科の高校に進学したかったのですが、父親の大きな反対もあり、最終的には地元川越市の進学校へ。そして高校時代はバンド活動に明け暮れました。

 バンドで大成しようと思っていたのですが(笑)、高校3年の冬、やはり作曲の勉強をきちんとしたいと思い、そこから音大作曲科進学に向けての勉強を始めました。反対した父の条件は「音大に行くから勉強しないは許さないし、学費も一般の大学相当しか出さない」でした。ならばと猛勉強し、予備校では東大進学クラスに入り特待生で全国1位で授業料免除にもなりました。この学ぶ、頂点を極める方法論を考える習慣が私の今後の大きな力になりました。

 12月から受験直前までの3か月足らずで「和声―理論と実習」の教科書全3巻を学びきりました。教科書1冊で学んだ内容をA4用紙に書き出してまとめ、二度と教科書を開かない、という工夫をして、とにかく短時間で学習する意欲を燃やしました。1日8時間ピアノを弾き、8時間理論と文献を研究しました。が、さすがにギリギリ過ぎまして、その年は浪人し翌年国立音楽大学に進学しました。

 最終的に父の反対を振り切っての音大進学、という形になりましたので、勉強と並行して学費等のためのアルバイトは欠かせませんでした。作曲もピアノもアルバイトも、とにかく時間の制約がある中でしたが、おそらくビリの成績で入った音大を4年間でトップで卒業することに意欲を燃やしました。ここでも様々な工夫を意識的に続けました。睡眠時間は平均3時間、ピアノの練習についていえば、「今日の休憩時間、どこを弾けるようにするか」を考えながらアルバイトをし、バイト先から走って帰宅、15分でそこのフレーズ弾けるようにしてバイト先に戻る、学校の教室の移動が何分だから歩きながら何小節譜読みをするという生活を重ねました。ソナチネもろくに弾けなかった私ですが、数年でショパンのバラード、スケルツォを数時間で暗譜して弾きこなすようになりました。大学卒業時に目標だった大トリでオーケストラと共演した自作のピアノ協奏曲は、バイト先の厨房でも書いていましたね(笑)

 そうして無事に目標を達成し大学を卒業しましたが、もちろんすぐに仕事はありません。私は当時バンド活動での基盤がありましたので、スタジオミュージシャンや大物歌手のバックバンドとしての仕事で生計を立てていきました。その後、ファンの方から「ピアノを教えてほしい」と言われて、ピアノを教えることが仕事になると気づき、演奏・作曲家と並行して「ピアノ指導者」の道に入ります。

学びと工夫を積み上げた教室広報

 しかし、家で待っていても生徒はきません。新聞折込チラシもしてみましたが1万枚配布して入会者は1~2名。これではいけない。今では笑ってしまうような話ですが、「キャッチコピー商材」のようなものも購入し、チラシ・WEBサイトを作成しました。

例えば、『◎◎教室 生徒募集中』よりも、『春からピアノを始めませんか?』の方が、チラシとしては顧客の目に留まり心を動かす、ということ。長々と書きたくなってしまう講師プロフィールなど、チラシにおいては意味がないということ。
今思えば当たり前のことですが、当時はそういったことを一つ一つ吸収していきました。

WEBサイトのSEO対策についても自分で勉強しました。当時はページにたくさんその単語が入っていれば検索上位にヒットするという時代だったので、白い背景に白い文字で「川越市」「ピアノ」って100個以上書きましたね(笑)。

 そのような工夫を重ねていたら、入会者が徐々に増えていきました。そうして資金ができたら投資ができます。ピアノの勉強をもう少し極めたいと思い、国立音楽大学アドヴァンストピアノコースに進学。当時コース設立後初めての合格者だったそうです。27歳の頃でした。

コンサートのできる家をつくろう!

 父の反対を押し切って音楽の道に進んだからこそ、音楽で身を立てて父に親孝行をしたいという想いもありました。父と一緒に住める家、そして「コンサートのできる家」を作りたいと思い、結婚を機に家を建てました。30歳の時でした。20畳のサロンホールは椅子を出して40名ほど入れる広さです。

 設計について勉強し自分で図面を作成。照明、防音についても研究を重ね、自分で資材を選びました。サロンホールの防音については、業者にお願いすれば600万くらいかかるところを、自分でやったことによって費用を10分の1以下に押さえました。今の世の中、何でも調べようと思えば調べられるので、結局は『自分で学んだ者勝ち』です。

天井の装飾部分については、ピアノを入れた後に「響きすぎる」ということで、後付けで調整。もちろん資材選びも自分で。下に引いたカーペットも「響き」を考慮してベストのものを設置。

 生きていくうえで「時間」は有限です。だからこそ「時間」を超えるには「工夫」するしかありません。私は高校3年の冬に音大進学を考えた時点で、ものすごいレイトスターターだったので、周囲が今まで費やしてきたであろう「時間」を超えるために様々な「学ぶ工夫」を重ねてきましたが、ずっとそれが楽しくて続けてこられました。今までもこれからも、そこは私の強いところかもしれません。

電子楽器に囲まれた「バンドマン」としての顔。
法人化は「信頼を買う」

 2017年、法人化し、演奏部門、作曲部門、指導部門に分かれた「株式会社山田隆広ピアノオフィス」になりました。年商800万が法人化ラインと言われていますが、実際5~600万のラインで法人化を検討してみても良いのではないかと感じました。

法人化によって、依頼される仕事が大きくなり、『対・法人』の仕事が入るようになりました。「個人」よりも「法人」になることによって、信頼度合いが高くなる、ということを体感しています。

経営者としてアドバイスするとなると3点。

1.自分の商品価値は?

ピアノ指導者にしても、ピアニストにしても、私たちは自分自身が商品です。お客さんがあなたを選ぶ理由はなんだ?自分という商品の他商品と比べてのメリットをちゃんと説明できるか?ということを私は常々考えます。世界で自分しかできない音楽がありますか?

2.異業種交流会に参加せよ

近くの商工会議所の交流会とかからでOKです、怖いところではありません。いろいろな業界の経営者が集う、楽しい会です。が、どの分野であれ「経営者」という人種は物凄く勉強をしています。刺激を受けて、自分でも勉強しましょう。

3.『音楽家としての信念』×『ビジネスマンとしての思考』

両者のバランスが大切だと思っています。決してビジネスだけに寄ってはいけない、と。それでは「あなたの音楽」は昇華されません。私は「音楽家」です。音楽家として、常に誰よりも芸術に寄り添って研鑽を続けなくてはなりません。

川越市の音楽文化の発展に

 ピアニスト・ピアノ指導者・キーボーディスト・作曲家と、様々な顔がある私ですが、もうひとつ、川越市クラシック演奏家協会の会長も務めています。

若かりし頃、たくさんのアーティストのサポートメンバーとして様々な街をコンサートで訪問しましたが、街から街へ移動していくときに、いつも自分の故郷である川越市が飛ばされていくことに寂しさを覚えていました。

私一人では難しいかもしれませんが、同じ川越市出身・在住の演奏家と協力し、川越市の音楽文化の向上に貢献したいと思い2年前に協会を立ち上げました。

私を育ててくれた川越市にこれから音楽で恩返しをしていきたいと思っています。

結びに
これからピアノ指導者になろうと考えている方へ、

 魅力的な先生というのは、先生自身の音楽への愛と敬意が高い方のことだと思います。生徒に音楽を、演奏を好きになり音楽の素晴らしさを理解してもらうには、先生が音楽、演奏を愛し、果てしない感性と知性の海を航海すること、そうすれば自ずと生徒はついてきます。
そうして磨き抜かれた指導者というコンテンツを、もう一つ経営者という側面で学び発信してください。その両輪が回っていればピアノ指導者という職業は若者にとっても夢溢れるものであり、クラシックに限らず音楽という文化は必ず伝承されてゆくでしょう。

山田 隆広

ピアニスト・キーボーディスト・作曲家。埼玉県立川越高校卒業。国立音楽大学アドヴァンストピアノコース修了。ピティナ正会員。ピティナ・ピアノコンペティション他様々なコンクールで全国1位、受賞者多数を輩出。各コンクール審査員等も務める。自身が代表を務める山田隆広音楽アカデミーは、立ち上げ5年で予約待ちの教室となり、現在講師は自身一人にこだわりクオリティを守りながらも在籍生徒は全国に100名以上、コンクール優勝者、音大合格者、作曲家などを多数育成している。川越市クラシック演奏家協会会長。
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