ピティナ調査・研究

第2回 グロトリアン=シュタインヴェーク ①

第2回 グロトリアン=シュタインヴェーク①

こんにちは。
2月から始まった「世界の名器たち」の連載の第2回目です。
当連載では、古今の名器と謳われる各ピアノメーカーの歴史やモデル、時代による形状の変遷、エピソードなどを交えてご紹介していきたいと書きました。今回より、その中身に入って行きたいと思います。

本当は、私が標榜する「楽器の事典ピアノ」では各国ごとのメーカーを並べ、特にドイツでは創業の古い順番から挙げているので、その例に倣いたかったのですが、前回ちょうどドイツの名器の一つ、グロトリアン=シュタインヴェーク社が倒産・廃業に追い込まれたという衝撃的なニュースをご紹介したところですので、逡巡の末、敢えてグロトリアン=シュタインヴェークから始めてみたいと思います。

グロトリアン=シュタインヴェークは、創業以来190年の間に160,000台余りのグランドピアノとアップライトピアノを生産してきました。しかし、生産台数が極端に少ない事で知られる、ウィーンの名器ベーゼンドルファーは例外としても、このグロトリアン=シュタインヴェークの生産台数は決して多い数字とはいえません。それは、決して大量生産を行わず、一台一台徹底した手仕事によって製造されてきた伝統を示すものに他なりません。ピアノ製造の根底には、何と言っても音楽への愛情が不可欠です。長年に亘りグロトリアン=シュタインヴェークの社是として掲げられている、「私たちは音楽を愛しているから」という精神に顕れています。

スタインウェイの創業者ハインリッヒ・シュタインヴェーク
■写真① スタインウェイの創業者ハインリッヒ・シュタインヴェーク

シュタインヴェーク(スタインウェイ)の創業の経緯について

グロトリアン=シュタインヴェークの歴史を語るとき、現下「世界のピアノの代名詞」と謳われるスタインウェイ社(ニューヨーク・ハンブルク)の源と同じなので、まずそこから語り始めなければなりません。因みに、ドイツ名「シュタインヴェーク」は、英語読みにすると「スタインウェイ」となる事でもお分かりになるかと存じます。

スタインウェイ社の創業者であるハインリッヒ・シュタインヴェーグ(1797~1871)は、ブランシュヴァイクの林務官の16番目の息子として生まれました。少年時代にナポレオン戦争が起こり、父親や兄たちは徴兵されました。母親とその他の子供たちは家族の帰りを待つ間に飢え死にしてしまい、父親が帰ってきた時には、息子たちはハインリッヒを含めて3人しか残っていませんでした。さらに、彼が15歳の時、実家が落雷による火災で全焼してしまい、父親を含む兄弟が亡くなってハインリッヒのみが生き残る、という壮絶な少年時代を過ごしています。しかし、木材を見分ける眼と工作能力に天性の才能を持っており、20歳で家具職人として働き始め、オルガン工房で腕を磨いていました。途中で軍隊に徴兵されて、ナポレオンの軍隊とウォータールーの戦いに従軍してラッパ手を務め、敵軍の目前で進軍ラッパを吹いたとして銅メダルを授与されたという話が伝わっています。

ハインリッヒは1822年に軍務を離れた後、各地を転々として修行する過程で、ピアノ(当時はハンマーフリューゲル)の製作に興味を持つようになりました。しかし、当時の彼は楽器製作者のギルドとして認められていなかったため表立って楽器製作ができず、ひっそりと製作を試み始めました。最初はマンドリンやツィターから始めてピアノの製作へと移行していき、初めてのスクエアピアノ製作に着手します。このピアノは、1825年2月、ゼーゼンの手袋製造業を営む資産家の娘ユリアーネとの結婚式の際の贈り物としたと伝わっています。しかし、当時彼は困窮していたため、このピアノは売りに出されることになりました。優れた楽器であったため、直ぐに買手が見つかったといいます。

ハインリッヒは当初ギルドとして独立するのに壁がはだかりましたが、折りしもこの年ゼーゼンが大火災に見舞われたのが転機となり、その復興措置として、ギルドとして通常義務付けられる7年間の修行期間を経ずに仕事を始めるための特別許可を首席裁判官から受けることができました。こうして晴れて独立を達成したハインリッヒは、オルガンの製作や修理などを行っていきます。因みに、ゼーゼンはハルツ山地の端にあり、当時は楽器用木材である良質なブナ材とトウヒ(スプルース)材が採れ、ピアノ製造業を興そうという気概に満ちたハインリッヒにとっては当然重要な場所だった訳です。

そして、1829年には作業場などを有した庭付きの2階建ての大きな家を購入できるまでになり、1835年から正式にピアノ製造を開始し、その全ての楽器に「H.シュタインヴェーク、楽器製造業者、ゼーゼン」(H.Steinweg Jnstrumentemacher in Seesen)とのロゴを表記したプレートを付けるようになりました。因みに、グロトリアン=シュタインヴェークが創業年を1835年としているのは、以上の経緯によるものです。

スタインウェイ第1号と言われるキッチンピアノ
■写真② スタインウェイ第1号と言われるキッチンピアノ

因みに、このゼーゼンの自宅兼工房で、翌1836年に第1号のハンマーフリューゲル(現存)を完成させましたが、これは、この自宅の元台所だったところを改装した工房で製作された事から、「キッチンピアノ」と呼ばれています。(一説には元洗濯室だったという話もあります。)なお、この第1号のハンマーフリューゲルは、スタインウェイのアニバーサリーイヤーに、ベルギーで古楽器とピアノの製造・修復を手がける、ヨーロッパ最大のスタインウェイ社のディーラーを展開するマーネ(Maene)社にてレプリカが製作され、筆者も現地で実際に触れる事ができました。

ハインリッヒの人生に話を戻しましょう。3年後の1839年、彼はブラウンシュヴァイクの州の商品見本市にグランドピアノ1台とスクエアピアノ2台を出品。品質が優れており、一等賞を受賞しました。特にグランドピアノは注目を集めたと言われています。出品した中の1台をブラウンシュヴァイク公爵が3,000マルクで買上げるという栄誉もうけました。なお、この時のスクエアピアノの中にフリードリッヒ・グロトリアンのために設計・製作したものが含まれ、現在ブラウンシュヴァイクの博物館に保存されているとの情報があります。

その後、ハインリッヒはピアノメーカーとして徐々に軌道に乗り、1848年までに約400台のピアノを製造し、ゼーゼンで最も繁盛している製造業者となっていたといいます。

スタインウェイ・キッチンピアノMaene社複製
■写真③ スタインウェイ・キッチンピアノMaene社複製 ※執筆者撮影

当時のドイツは帝国成立前の時期で、複数の小国が林立していました。そのため、経済的な問題として、他国から注文を受けて輸送する際に、それぞれの国境を越える度に関税が課せられたり、はたまた川の通行料がかかったりと不利益を被っていました。それに加えて革命が起こったりと政情も不安定だったため、1849年に次男カールが新天地を求めてアメリカに渡ったのを皮切りに、翌1850年には長男C.F.テオドール(英語名セオドア1825~1889)を一人残して、ハインリッヒは一家でアメリカに渡りました。準備期間を経て1853年ニューヨークでスタインウェイ社を創業し、現在に至っています。

つづく。

■グロトリアン=シュタインヴェーク社公式ホームページ(日本語ページあり)

https://www.grotrian.de/ja/

参考文献:

・今泉清暉, 宇都宮誠一(共著) 1988 『楽器の事典ピアノ 新装普及版』 東京:東京音楽社刊

・リーバーマン, リチャード K. 1998 『スタインウェイ物語』 鈴木依子(訳) 東京:法政大学出版局

・ULRICH, Peter, and Burkhard Stein 2010. 175Jahre Grotrian-Steinweg. Braunschweig: Grotrian-Steinweg Pianofortefabrikanten.

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