ピティナ調査・研究

<第16回>笑いと静寂

演奏とコンクール
金澤 攝
<第16回>笑いと静寂

多大なインパクトを与えたであろうベートーヴェンでしたが、結局のところ、私には空しいものでした。二楽章で演奏がかなり荒れてしまった反省や、何よりも好感の持てない作品を無理やり熱演する嫌悪感は、やり切れません。しかし、会場の湧き方が決して冷笑ではなかっただけに、私には励みになりました。とにかく見物としては面白かったのでしょう。この「笑いのモード」はその後もしばらく続きます。

次のショパンとリストのエチュードは、記憶にほとんど残っていないところを見ると、可もなく不可もなしだったと思われます。多分、ベタつかないよう、さっぱり弾いた筈です。

驚くべきは、ほんのちょっとした音の表情一つで、会場全体がどよめいてしまう、反応の鋭敏さです。あれだけの数の聴衆が、一心同体的に音楽を共に呼吸する感覚は、日本ではまず体験できないことです。

そして唯一の救いとなっていたスクリャービンは、それだけに自然に楽しく弾けました。これは結構良かったのでは、と思いきや、今まで湧いていた会場のテンションが急に下がった感じになり、拍手もまばら。「何だ、受けなかったか」とがっかりしました。

余りにもシュンとして元気の凋んだ客席の違和感に「どうしたんだろう」と振り向いたくらいでした。

その次が、何がいいのかさっぱりわからなかったラフマニノフ。ヴィジョンが全く見えず、ただ音符を弾いただけで、当時の私には最も遠い音楽でした。

最後にチャイコフスキーの「四季」より一月。これははっきり情景が見えます。冬の夜の炉端に安楽椅子でウトウトする老人と、隙を窺って登場するネズミがいます。

このネズミはチャイコフスキーの作品の至る所に出没する、彼のトレードマークです。「くるみ割り人形」の序曲などは正にネズミの踊りで、このバレエの本当の主役はネズミなのです。私の言う意味がお判りでしょうか。

こいつが顔を出したあたりから、会場に少し笑いが戻って来ました。大体、クラシックのピアノ・コンサートには笑いが無さ過ぎます。ピアノという楽器はそれ程、悲哀や深刻さばかりを表す定めにあるのだろうか。楽器の色が黒いことと無関係ではない気がします。

以上を弾き終え、舞台袖の控室に戻るや否や、音楽院の学生と覚しき二人の青年が駆け込んできました。握手を求められ、感激した、特にスクリャービンが素晴らしかった、と言うのです。その興奮した様子に、逆に驚かされました。こういったリアクションも日本人には考えられません。

コンクール参加証の件でお世話になった現地の大使館の方も聴きに来ていて、「彼が訴えたかったことは何か。こうした演奏はコンクールではなく、彼のリサイタルとして聴きたかった」と母に伝えたとのことです。(2019.1.11)

この連載について

金澤攝氏の連載記事「音楽と九星」第一部では、たびたびピアノ演奏のあり方に関わる提言がなされていました。このたび開始する連載「演奏とコンクール」は元々、同連載の第二部に入る前の「コラム」として構想していましたが、短期連載へと拡大して、掲載することになったものです。金澤氏は音楽家として長年にわたり、千人以上におよぶ作曲家と、その作曲家たちが遺した作品を研究し続けています。ピティナ・ピアノ曲事典は、氏が音楽史を通観する「ビジョン」を大いに頼ってきました。その金澤氏がコンクールに関わっていたのは約40年前、コンテスタントとしてでした。現在はピアノ指導には携わっておらず、続く本文でも言及されているように、昨今の音楽コンクールの隆盛ぶりに驚かれています。その金澤氏による「コンクール」論は、コンペティションにピティナ会員の方々には新鮮に感じられるかもしれません。共感されるかもしれませんし、あるいは異論・反論を述べたくなるかもしれません。この連載では、まずは氏の提言を連載しますが、「演奏とコンクール」は多くの音楽家にとって切実なテーマであるはずです。ゆくゆくは様々なコンクール関係者、ご利用される方々にも寄稿をお願いし、21世紀における「コンクール」ひいては「ピアノ演奏」のあり方を考えていく契機にしたいと考えています。(ピティナ「読み物・連載」編集部 実方 康介)

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