11 ピアノ音楽風土記 イタリア その2
チマローザの後のイタリアのピアノ作品の作曲家はガエターノ・ドニゼッティ(1797-1848)でしょう。ロッシーニは1792年生まれで彼よりも先輩になりますが、ピアノ音楽の作曲ではドニゼッティのほうが先んじています。後述のように、ロッシーニが「老年のいたずら」を作曲するのは、1857-68年の彼の晩年期に当るからです。
器楽作曲家としてのドニゼッティはもっと注目されてしかるべきです。ロッシーニと同様、19世紀前期のイタリアでは、ハイドンとモーツァルト受容がとても重要な意味を持っていました。それはロッシーニの初期の作品、「弦楽のためのソナタオペラ」に端的に示されています。編成はヴァイオリン2、チェロ、コントラバスという編成で、弦楽合奏の形でよく演奏されます。1804年作曲のこの作品集の透明な書法と形式感は、ロッシーニがウィーン古典派、とりわけモーツァルトの後継者の一人であったことを示しています。さらに「アルジェのイタリア女」(1813年初演)では、モーツァルトの「魔笛」から明らかに借用した旋律が含まれているだけではなく、この作品のプロットは「後宮からの誘拐」の焼き直しのようでもあります。また、代表作「セビリアの理髪師」(1816年初演)は、モーツァルトの「フィガロの結婚」の物語の前半部分を題材にしています。もっとも、パイジェッロも1782年に「セビリアの理髪師」を作曲して、ペテルブルクで上演しています。
ドニゼッティの初期の創作は器楽作品に当てられています。彼こそ19世紀前半におけるイタリアの最大の器楽作品の作曲家と言ってもよいでしょう。そして彼の模範はウィーン古典派でした。というのは、彼がベルガモの聖マリア・マッジョーレ大聖堂聖歌隊学校で師事したのは、ジーモン・マイヤー(シモン・マイル 1763-1845)で、彼はバイエルン出身の音楽家で、彼はベルガモにハイドンやモーツァルトの弦楽四重奏曲をもたらし、ドニゼッティもその一員として演奏に参加して、その書法を身につけます。彼は1817年から1836年までの期間に19曲の弦楽四重奏曲を作曲していますが、その表現語法はウィーン古典派からの影響が著しく、一部はベートーヴェンからの影響も見られます。この室内楽創作の経験は、オペラの序曲の作曲に活かされることになります。
ピアノ音楽の分野でもドニゼッティは19世紀前期のイタリアの作曲家ではもっとも重要です。1813年に作曲した「パストラーレ」や、「シンフォニア」と題されたピアノ独奏曲が作曲されています(イ長調、ハ長調)。一連のピアノ作品の中で注目しなければならないのは、ピアノソナタと変奏曲でしょう。ドニゼッティは、数曲のピアノ独奏のための変奏曲を作曲していますが、19世紀の少なくとも前半のイタリアで、変奏曲を手がけた作曲家は彼以外にどれほどいるでしょうか。そしてピアノソナタです。イタリアのピアニスト、ブルーノ・カニーノが紹介してドニゼッティのピアノソナタは一躍知られるようになりました。ドニゼッティのピアノソナタは、連弾用の作品がメインで、少なくとも7曲の作品が確認できる。草稿で残された作品などが明らかになれば、作品数はさらに多くなるものと思われます。彼のソナタは、19世紀前期を風靡したロマン主義の傾向からはまったく離れて、たしかに時代遅れの古典派の亜流にしか聞こえないとしても仕方がないでしょう。それは、ベルガモにおける一つの文化と考えなければならないでしょう。このような形で、ドニゼッティを通して、弦楽四重奏曲やピアノ音楽の創作が精力的に行われていたことはもっと注目されてよいと思います。弦楽四重奏曲は、全曲の演奏CDが発売されていますが、作品はなかなかの高水準です。
年代的にはドニゼッティよりも先輩になりますが、ロッシーニは晩年、「老年のいたずら」と題した13巻とそのほかの小品からなる作品集のなかで、ピアノ音楽を何曲か作曲しています。そこにはピアノソナタや変奏曲といった肩苦しい作品はなく、「私の最後の旅のための思い出と行進曲」や、「オッフェンバック風小カプリッチョ」といった、軽妙な表題の作品が並んでいます。この作品集自体、1848年の革命と独立蜂起やイタリア独立戦争などの大波乱を経験したロッシーニ一流の、一部政治的な意味を込めた処世術のようにも見えます。晩年のロッシーニは、これらの独立運動からの軋轢、フランス政府との法的な軋轢、有名人であるからこそ生じる駆け引きなどの、さまざまな煩わしさから超越した、自由で自在な表現をこれらのピアノ作品に託したのでしょう。