16 ノクターンとピアノ文化 19世紀を映す鏡としてのノクターン その6
ゆったりとしたテンポのノクターンでは、主題や旋律の装飾的な変化が好んで用いられます。基本となる旋律が、反復されるときにきらびやかに装飾的に変化して登場します。一つの旋律を言い換えるように変奏させる手法は、フィールドのノクターンのもっとも重要な表現です。これはウムシュライブンク(Umschreiben)、つまり、「書き換え」とも言われるこの書法で、すぐれて声楽的な表現です。ショパンも愛好したベッリーニのオペラ「ノルマ」でも美しく用いられています。
ショパンがベッリーニの作品を愛好していたことは知られていますが、このような声楽的な装飾的変奏は、フンメルやチェルニーでも同様に用いられている表現でもあり、1810年代以降、共通に用いられていた語法でした。たとえば1816年頃に作曲されたフンメルのピアノ協奏曲イ短調(作品85)や1819年刊行のピアノソナタ嬰へ短調(作品89)や、チェルニーのピアノ協奏曲イ短調(作品214)の表現は、驚くほどショパンとの共通性を示しており、上記の「ウムシュライブンク」の書法を共通に用いています。このことを考えると、フィールドが用いた装飾的変奏の手法は、彼の独創によるところは大きいのですが、1810年代に広まりつつあった流行の表現でもあったと思われます。しかし、これを表現様式に高め、「ノクターン」という形で集約したのはフィールドです。 さて、この「ウムシュライブンク」の表現を今度はショパンに即してさらに詳しく見ていきます。左手の分散和音や和音の刻む拍に対して、右手のパッセージは、あたかも風にそよぐ枝の葉のように拍に伸縮を与えます。このテンポは、ソナタ形式においても、舞曲においても見られない、器楽における新しいテンポ意識です。
ショパンがフィールドのノクターンの影響を受けたことはよく指摘されることです。ショパンは1831年12月12日のヴォイチェホフスキー宛の手紙で、彼の演奏した作品を聞いたカルクブレンナーがフィールドと比較したことを述べています。しかし、ショパンがフィールドの音楽をいつから知っていたかは明らかではありません。おそらくワルシャワ時代から知っていた可能性は十分に考えられますが、それは彼の作風を形成する決定的なものではありません。ショパンは同時に上記のフンメルらの影響も受けていました。
ショパンのノクターンのなかで、フィールドからの影響を指摘できるのは主に初期の作品についてです。フィールドの第1番(Es)の調性は、ショパンの第2番(作品9-2)と同じで、情趣も類似しています。また、旋律の雰囲気はショパンの第4番(作品.15-1)と結びつきを感じさせます。フィールドの第6番(F)もまたショパンの第2番(作品9-2)と旋律形が類似しており、むしろショパンの創作の下地になった可能性を感じさせます。フィールドの第9番(Es)の伴奏音型もまたショパンの第2番(作品9-2)と同じ表現のタイプに属します。フィールドの第12番(G)は、ショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」の「アンダンテ・スピアナート」の部分と類似しており、とくに左手の長い分散和音は共通です。
しかしここで問題なのは、両者の間に類似性や共通性が見られるとして、ショパンがどの程度にフィールドの作品を評価していたのかという点です。たしかに、作品9に代表されるようにショパンの初期の作品には影響が指摘されるとして、ショパンはすぐにその影響から脱して、独自の表現を極めていきます。すなわち1831年頃はまだ影響関係を感じさせますが、1833年を過ぎることからは明らかにその影響を脱していきます。すなわちショパンがフィールドの影響を受けたとしても、それは「ノクターン」第1番から第6番の時期にとどまるといえます。そして、ショパンはノクターン第7番(作品27)から新しい創作の段階に入っていきます。
19世紀前期にフィールドによって始められたノクターンがショパンに受け継がれて、フランスのピアノ文化の一端を形成していくことになります。パリのミリューにおいてノクターンがどのように受け入れられたのでしょうか。ノクターンの歴史を見た場合、19世紀前半と後半ではまったくその様相を異にします。フィールドそしてショパンによって確立されたノクターンというジャンルは、その前史とは切り離されて、サロン音楽としての独自の発展を見せていくことになります。その場合、ノクターンというジャンル名そのものもそれほど意味をなさなくなっている場合も多く見られます。すなわち、ノクターンという名称を使わずとも、その表現がさまざまな音楽に応用されて、甘美で夢想的な音楽に用いられていったからです。