16 ノクターンとピアノ文化 19世紀を映す鏡としてのノクターン その3
ノクターンの表現において欠かせないのが、左手の分散和音の表現です。この左手による広い音域の分散和音の伴奏は古典派の音楽には見られません。そのなかで、注目されるのがモーツァルトです。きわめて叙情的なピアノ協奏曲第21番の第2楽章の表現は、その後のノクターンを暗示しております。左手の分散和音のゆったりとした伴奏は、ペダルの表現と密接に結びついています。さらに、ピアノ協奏曲第27番第1楽章でもこのような表現を耳にすることが出来ます。このモーツァルトの弟子が、ショパンに深い影響を与えたフンメルであったことは重要です。モーツァルトの緩徐楽章は、ノクターンの一つの原型となっていると考えられます。
緩徐楽章の表現の点ではベートーヴェンも重要な貢献をしています。ベートーヴェンの緩徐楽章の情緒纏綿たる表現はロマンティックな詩情にあふれています。この表現は、サステイン・ペダルの機能なくしては、その優美な効果を達成することは不可能です。単に「和声を支える」という役割を越えて、残響の表現や情景の表現など、さまざまな形でペダルが活用されていくようになります。ノクターンはこのペダルの表現を最大限に活用した音楽といえます。ノクターンの創始者といわれるフィールドの作品では、左手の分散和音はセレナード弾きのギターを思わせ。この分散和音がペダルの効果によって豊かに鳴り響き、この伴奏を背景にして右手は繊細なパッセージを奏します。
ペダルを用いた演奏の効果について、ここで少し考えなければならないのが、ピアノそのものの残響です。19世紀の木製フレームのピアノは、現代の鋳鉄フレームのピアノよりも、はるかに音の減衰が速く、音は硬く明晰です。このピアノでは残響が短いために、ゆったりとした「響きの雲」を演出するにはペダルは不可欠です。また、ピアノの残響が短いために、ペダルは長く踏んでも、上声部の細やかなパッセージの音は濁ることはあまりなく、むしろ、長いペダル使用にとって左手の奏する分散和音のハーモニーの美しさと、上声部のかすかな音の混濁が幻想的な調和を醸し出してくれます。
この長いペダル効果を生かすために、和声の変化はあまり頻繁ではなく、ゆったりとしたテンポが好まれました。この語法は、ノクターンというタイトルをもつ作品だけではなく、そのほかの曲種でも用いられ、19世紀の音楽表現の一つの典型となっております。実際、ノクターンという表題をもたないものの、紛れもなくノクターンを思わせる作品も数多く見られます。たとえばショパンでは、このノクターンで培った語法が晩年の「子守歌」や「舟歌」へと高められているのを目にすることができる。その意味で、ノクターンはピアノ音楽のジャンルを超えて、19世紀ピアノ表現の一つの典型ともいえます。
フィールドのノクターンのいくつかは、彼自身の作曲したピアノ協奏曲の第2楽章(緩徐楽章)の、ピアノ独奏用版をも土台としています。フィールドは1815年に第1番のピアノ協奏曲を出版して以来、1832年に第7番のピアノ協奏曲ハ短調を完成して、1834年に出版しますが、これらの協奏曲の作曲において彼は室内楽用とピアノ独奏用のセパレート・エディションを編みました。 フィールドはどうしてこのような編曲版を編んだのでしょうか。それは、音楽の需要を見込んでのことです。彼は全部で7曲のピアノ協奏曲を作曲しましたが、協奏曲版のほかに、室内楽版、ピアノ独奏版などを編みました。これらの室内楽版やピアノ独奏版の方が、音楽愛好家が容易に親しむことが容易で、人々の広い需要に応えることが出来ます。
フィールドのピアノ協奏曲のセパレート・エディションで注目されるのは、第2楽章の編曲です。上記のように、彼のノクターンの何曲かは、ピアノ協奏曲の第2楽章からの編曲です。協奏曲の原曲では、弱音でオーケストラが伴奏するなかで、ピアノ独奏が主旋律をゆったりと演奏する様式で書かれており、ノクターンにおける伴奏と主旋律の書法はこの協奏曲の書法を土台としているということができます。
以下、フィールドの7曲のピアノ協奏曲のピアノ独奏版について列記しましょう。
- 第1番 1815年出版 第2楽章「Air ecossais」
- 第2番 1816年出版 第1楽章(独奏?)。第2楽章「Romance」。第3楽章「Rondeau」
- 第3番 1816年出版 第2楽章は独奏版の「Rondeau」の協奏曲化
- 第4番 1814年出版 第3楽章「Rondeau」
- 第5番 1817年出版 全楽章ピアノ独奏版
- 第6番 1823年出版 第3楽章「Rondo brillant」
- 第7番 1834年出版 第1楽章「ノクターン第12番」