ピティナ調査・研究

15 女子教育とピアノ その2

ピアノの19世紀
1 女子教育とピアノ

19世紀において、女性の教育は、よき妻、よき母となるための実用的な教育に限られていました。もちろん女性が職業訓練を受けることもありえませんし、女性弁護士や女性の建築家も女性の実業家も考えられないことでした。
 そのような状況の中で、事実上、唯一女性に門戸が開かれたのが、音楽教育、とくにピアノと声楽でした。女性が音楽学校で学ぶことを許された専攻は、ピアノと声楽だけで、管楽器や弦楽器、指揮、作曲の専攻は閉じられていました。ここにも女性に対するいわゆる性差別がありました。  それではなぜ、女性がピアノを学ぶことが許されたのでしょうか。そこには19世紀における女性の社会的なあり方が反映されていました。ピアノを演奏する女性は、家庭のなかのいわばアクセサリーとしてみなされていました。ピアノを演奏することの出来ない女性は、富裕階層のサロンで開催されるパーティーには出席することは不可能です。サロンは女性の奥方が主宰して行われましたが、サロンに出入りすることが許されることは一つのステイタスであり、またそこは良縁を実現できる場でもありました。そのサロンにおける重要な出し物がピアノの演奏でした。
当時に雑誌にはサロンにデビューする場合の、女性の仕草について事細かく解説した記事が掲載されています。そこには、殿方の前で、専門的な醜い作品を長々と演奏することは決してすべきではないと記されています。つまり、ピアノソナタは女性が演奏すべき曲目ではありませんでした。ベートーヴェンのソナタなどはご法度でしょう。愛らしい舞曲や話題のオペラのアリアの旋律による変奏曲、民謡編曲などは女性向きの音楽とみなされていました。19世紀には女性専門のピアノ雑誌がいくつも刊行されましたが、どれも上記の曲目ばかりが並んでいます。
19世紀は練習曲の時代とも言われますが、当時のピアノ雑誌には、練習曲の効能として、忍耐強く、言われた命令を素直に受け入れる精神の形成があげられていました。つまり、目上の人、父親、夫の命令を素直に受け入れる女性を教育するには、同じ課題を繰り返し忠実に反復練習させることが効果絶大とされたのです。これも19世紀の女性教育の一つの側面が見られます。

2 音楽学校でのピアノ教育と女性の社会進出

音楽教育が広まるにつれて、各地に音楽学校が開設されました。しかし、音楽学校でのカリキュラムは、男性と女性とでは異なっていました。女性では理論の授業も音楽史の授業もなく、実技のみでした。女性は一定限度以上に上達することは好ましいこととは思われていなかったようで、1810年の事例では、男子学生では一日3時間の練習が義務付けられましたが、女子学生はピアノと歌唱で一日2時間と記されています。
それでも、音楽学校は、女性に唯一門戸が開かれた教育の場でしたので、続々学生が入学してきました。1866年のライプツィヒ音楽院でのピアノ科の卒業試験受験者の男女比は、19人対4人でしたが、1875年では9人対8人で、ほぼ互角になっています。ウィーン音楽院では1875年のピアノ専攻生316名の内、女性は254名で、1880年では400名のうち女性が350名に達していました。
この割合は音楽の職業人口にも反映しています。ドイツのアルトナの町のピアノ教師の割合は、1821年では16.7%でしたが、1849年では35.9%と女性のピアノ教師の割合が増大しています。この傾向はイギリスも同様でした。イギリスで音楽を職業とする割合(ピアノだけではなく声楽も含みます。)は、1841年では男性5600人に対して女性は900人でしたが、1881年では男性1万4200人に対して、女性は1万400人に達しています。 音楽学校だけではなく、個人教授の形で音楽を深く学ぶ女性も数多く登場し、やがて男性以上にピアニストとして名声を博する女性も登場します。そのもっとも重要な存在がクララ・シューマンです。
性差別や男性社会の抑圧の中で、家庭のアクセサリーとして行われた娘に対するピアノ教育は、社会の音楽受容を大きく変化させていきました。女性のピアノ人口の増大は、女性向のピアノ作品、つまり難解な作品よりもサロン向けの作品の創作を促していきました。そして、女性のピアノ人口の増大が音楽院を続々開設させる原動力となり、さらに女性の職業進出のきっかけともなったのです。