ピティナ調査・研究

17 音楽学校の誕生―ライプツィヒ音楽院の誕生の意味 その3

ピアノの19世紀

メンデルスゾーンがライプツィヒに音楽学校を開設したとき、ライプツィヒの町の音楽環境はどのようなものだったのでしょうか。バッハが聖トマス教会のカントールをつとめたこの町は、出版業や繊維業などで栄えており、「ライプツィヒ見本市(メッセ)」で知られるように、裕福な中産階級が多く住み、アマチュアの合唱が盛んに行われていました。さらに、新ロマン派音楽の推進者のシューマンが活躍していました。そして、当時のドイツ語圏においてもっとも重要なゲヴァントハウス管弦楽団がありました。現存する最古の管弦楽団の存在が、メンデルスゾーンにこの町に音楽学校を設立する大きなきっかけとなったと考えられています。ブライトコップやペータースなどの有力な楽譜出版社、バッハゆかりの聖トマス教会、ゲンヴァントハウス管弦楽団の存在は、彼には総合的な音楽教育において不可欠なものに映ったに違いありません。
 ライプツィヒ音楽院の教育環境は、最初は決して恵まれたものではありませんでした。とくに学生の練習環境はむしろ劣悪で、学生からのクレームもあったほどです。しかし、総合的音楽教育を目指すこの音楽院の教育方針は広く支持されていました。その名声の高さは個々に学んだ学生の国籍から知ることが出来ます。ドイツがもっとも多いのは当然として、ついでイギリスやアメリカからの留学生の割合が非常に高く、ほとんどヨーロッパ全土から学生が集まりました。  この音楽院に集まった学生の国籍をもう少し詳しく紹介しましょう(このデータは1843年から1880年までの在籍学生によるものです)。オーストリア、オーストラリア、ベルギー、キューバ、カナダ、スイス、ドイツ、デンマーク、スペイン、フランス、フィンランド、イギリス、ギリシャ、イタリア、アイルランド、メキシコ、ノルウェー、オランダ、ニュージーランド、ポルトガル、ポーランド、プエリトリコ、ルーマニア、ロシア、スウェーデン、スリナム(南米)、アメリカ。
 この留学生の国籍の多彩さはこの音楽院がクラシック音楽教育における世界の中心となったことを意味しています。このデータは1880年までですが、その後は日本からの留学生もここに学ぶことになります。ドイツのほかに目立つのは上記のようにイギリスとアメリカからの留学生の多さです。さらに南米を含めて新大陸やイタリアやスペインなどの南欧、ロシアなどのスラヴ圏からも留学生が集まったということは、ドイツ音楽が19世紀から20世紀において音楽のスタンダードになったことを意味しています。その大きな役割を担ったのは、音楽学校、とくにライプツィヒ音楽院でした。この音楽院に加えてベルリンやフライブルク、ハノーファーなど各地に音楽院が開設されてまさに、音楽がドイツ文化を伝える比類なく高い地位を占めるに至りました。
 ライプツィヒ音楽院は音楽の総合教育を目指した学校でしたが、各地に個性的な音楽学校が続々と開設されていました。前にのべたベルリン音楽院もその一つですし、メンデルスゾーンの師事し、彼の後任としてゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者もつとめたニールス・ゲーゼの開設したコペンハーゲン音楽院もそうした個性ある音楽院です。
 音楽院でその由来が独特なのはパリ音楽院です。パリ音楽院は、フランス革命後に開設された無料軍楽隊学校を前身としています。軍楽隊員の養成学校として始まった経緯から、当初は管楽器教育が優先され、その後さまざまな楽器教育や作曲教育が行われるようになりました。19世紀前期のパリでもっとも影響力のあったピアノ指導者は作曲家でもあるカルクブレンナーです。パリに移り住んで間もないころのショパンも彼に師事することを考えていました。ギド・マンというピアノ教育機器を用いる彼の指導法はパリ音楽院のピアノ教育に強い影響を及ぼし、彼の弟子のカミーユ・スタマティにも受け継がれています。このスタマティもライプツィヒを訪れてメンデルスゾーンの指導を受けていますので、ドイツ音楽の受容を背景にしています。このスタマティの弟子がサン=サーンスです。19世紀のパリ音楽院での音楽教育は、今日とは大きく異なっていたと思われます。その教育の実際についてはまだこれから明らかにされていく課題です。

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