ピティナ調査・研究

07 都市のピアノ音楽風土記  プラハ  その2

ピアノの19世紀

 トマシェク の後に登場したピアノ音楽の重要な作曲家は、ヤン・ヴァツラフ・ヴォルジーシェク (1791-1825)です。彼もトマシェクの弟子です。1822年にウィーンの宮廷オルガニストに就任しますが、1825年に早世しています。ピアノ音楽で数多くの優れた作品を残しており、近年、楽譜やCDが刊行されて彼に対する再評価は高まってきています。

 ヴォルジーシェクのピアノ作品では、《12のラプソディー》(作品1) をはじめとして、《欲望》(作品3) 、《喜び》(作品4) 、《即興曲》(作品7) などのほか、即興曲やロンド、ピアノ・ソナタなどの作品があります。彼はベートーヴェン を模範とし、彼がウィーンに移り住んだのはベートーヴェンと親密な結びつきを持ちたいという希望からでした。ベートーヴェンは上記の《12のラプソディー》を評価しています。

 トマシェクやヴォルジーシェクはボヘミアを代表する音楽家で、彼らのピアノ音楽はプラハの貴族や資産階級の間で親しまれたと思われます。たしかに、政治的にはオーストリア・ハプスブルク家の支配下にあり、経済的に自立する状況にはないボヘミアでは、ピアノの普及は限られていたと思われますが、それでもチェコ、とくにボヘミアの音楽の土壌は、その後のスメタナ のピアノ音楽を生み出していくことになります。

 プラハのピアノ音楽教育で重要な役割を担うのは、このスメタナも師事したヨゼフ・プロクシ(1794-1864)です。プロクシは17歳で失明した目の不自由なピアノニストで、プラハ盲学校でピアノをコジェルフ に師事します。彼は1830年に私的な音楽学校(Musikbildungsanstalt)を開設します。ここはとても先進的で総合的な音楽教育を行う学校で、リスト やベルリオーズ もここを訪れています。ここはまさにプラハの音楽教育の中心的な役割を担い、スメタナはこの音楽学校に1843年から47年まで在籍し、プロクシに和声や作曲を学んでいます。プロクシは作曲活動も行い、ジングシュピールやミサ曲、弦楽四重奏曲などの室内楽のほか、数多くのピアノ音楽も作曲しています。残念ながら彼のピアノ作品は今日省みられていませんが、プラハの音楽生活において大きな役割を担ったに違いありません。

 彼がプラハで刊行した「合理的なピアノ演奏教程」(1841-64)は、チェコ(ボヘミア)におけるピアノ教育に貢献するものでした。この書物のほかにも、「ピアノ演奏におけるアンサンブルの技術」(1858)という書物や「音楽通論」などもドイツ語で著しています。これらの書物はプロクシのプラハでの存在の大きさをよく示しているとともに、プラハのピアノ教育の盛況を反映しています。プロクシの書物がドイツ語で著されたことには上に述べたように深い歴史的な意味がありました。公的な活動の場合は、言語はすべてドイツ語とされていたからです。また彼のこれらの書物がドイツ語で著されたことで、ボヘミアのみならず、ドイツやオーストリアでも読まれました。

 ヴォルジーシェクに続く最大のピアノ音楽の作曲家は何と言ってもスメタナです。スメタナのピアノ音楽の作品数は多く、その水準の高さは注目されます。スメタナのピアノ作品にはドイツ・ロマン派のピアノ音楽からの影響が強く見られ、「性格的な6つの小品」(作品1、リストに献呈) や、「アルバムのページ」(作品3) 、「バガテルと即興曲」(作品6) などはその淡いお伽噺的な表現の点でシューマン との結びつきを感じさせ、「アルバムのページ」の第1曲は「ローベルト・シューマンに」と題されています。

 これらの作品と同時に、彼は数多くのポルカを作曲しています。ポルカはボヘミアの民俗舞曲で、彼の作品がボヘミアのピアノ愛好者に歓迎されたことは間違いありません。彼の数多くのポルカには女性の名前が付されており、とても私的な雰囲気を感じさせます。たとえば「ルイーザ・ポルカ」 や「ベッティーナ・ポルカ」 はその代表例です。「ベッティーナ・ポルカ」は、スメタナが気持ちを寄せていたバルバラ・フィルディアンディへの思いがこめられています。ポルカに愛らしいタイトルや女性の名前を与えるのは、当時のボヘミアにおける一つの傾向ともいえますが、これはボヘミアでも女性のピアノ人口が増大していることを暗示しています。女性のピアノ人口の増大はこの当時のヨーロッパの全体的な傾向でもありました。

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