ピティナ調査・研究

06 都市のピアノ音楽風土記  ライプツィヒ その1

ピアノの19世紀

ピアノ音楽の歴史においてもっとも重要な都市の一つがライプツィヒでしょう。ここは大バッハが1724年から亡くなる1750年まで活躍しただけではなく、現存する最古の管弦楽であるゲヴァントハウス管弦楽団があり、シューマンがここで過ごし、ピアノ作品の名作の数々を作曲した町であり、メンデルスゾーンがゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任し、さらにライプツィヒ音楽院(現在のライプツィヒ音楽大学)を創立した町でした。ザクセンの産業都市ライプツィヒは、楽譜出版や楽器製作業も盛んで、ペータース社(最初はホフマイスター・ウント・キューネル社として創業し、その後、ビュロー・ド・ミュジク社と改称し、その後ペータース社となる)とブライトコップフ・ウント・ヘルテル社はこの町の代表的な楽譜出版社です。ザクセンは鍵盤楽器の製造のもっとも重要な地域で、アンドレアスとゴットフリート・ジルバーマン兄弟は首都ドレスデンに生まれています。  ザクセン王国の首都はドレスデンですが、経済的な面ではライプツィヒが大きな役割を担いました。管弦楽団の名前で知られる「ゲヴァントハウス」は、織物会館という意味で、繊維産業がこの地域で盛んに行われていたことを示しています。また、「ライプツィヒ・メッセ」という見本市が開かれたのも、ここが産業都市であったからです。
豊かな産業を基盤として、この町では中産階級が形成され、ピアノ文化が栄えました。18世紀末から19世紀前期のドイツでもっともピアノ文化が栄えたのはザクセン、とくにこのライプツィヒでした。この町にはピアノ文化を支えるさまざまな要素が揃っていました。それは情報です。1798年、「一般音楽新聞」が創刊されたのもこのライプツィヒです。その後、50年間にわたって刊行されたこの新聞は1000部という当時としては比類ない出版部数を誇りました。当時のドイツでは楽譜出版でもせいぜい400?500部で、もっとも部数の多い文芸雑誌でも2000部でした。音楽専門新聞が1000部の読者を得たということは、それだけのピアノ人口があったことを示しています。というのは、この雑誌の最大の目玉の一つが、新刊楽譜の出版案内で、その中心はピアノ音楽でした。
「一般音楽新聞」の読者はライプツィヒに限りません。ドイツ語圏全体にわたって読者がいました。この新聞に掲載されたピアノ音楽の記事についてはすでに紹介しましたので、ここで重複は避けて、少し違った角度からこの町のピアノ文化を取り上げて見ましょう。それはライプツィヒ音楽院(現在のライプツィヒ音楽大学)でのピアノ教育です。これについては、別に章を改めて取り上げることにしましょう。
ライプツィヒの音楽環境は独特でした。それは何と言っても聖トマス教会とバッハの伝統によるところが大でした。バッハがカントールをつとめた聖トマス教会には付属学校がありました。バッハはこの付属学校での指導も課されていました。バッハの没後になりますが、ライプツィヒで活躍した作曲家ヨーハン・アダム・ヒラーは、1789年から「聖トマス教会学校演奏会」を開催しました。この演奏会はピアノの連続演奏会としての特別な意味を持っていました。
ヒラーはザクセンのクロイツシューレに学んだ後、ライプツィヒ大学に学び、1781年にゲヴァントハウス演奏会(その前身は1743年にドーレスが創設した大演奏会Grosses Konzertで、1761年に運営を引き継いだ)の初代指揮者に就任して、今日に至る基礎を確立しました。そしてヒラーは1789年に聖トマス教会のカントールにも就任し、文字通りライプツィヒの音楽生活をリードしました。彼は、ジングシュピール「変えられた女たち、さあ、大変だ」を作曲し、1766年に初演しますが、この作品はその後モーツァルトの「魔笛」に連なるジングシュピールの最初の作品でした(この作品は厳密に言うと、シュタントフスの作品の改訂)。このヒラーの後任として聖トマス教会のカントールに就任したのがアウグスト・エヴァハルト・ミュラーです。
ミュラーは就任した1804年から面白い演奏会を開催しました。「ベルリン音楽新聞」に記載された記事から1804年と1805年の演奏会の模様を知ることが出来ます。その記事によりますと、11月から4月にかけての時期に基本的に毎週、「聖トマス学校演奏会」が開催されていました。この演奏会はライプツィヒの市民生活の中での音楽を考える上でとても重要な意味を持っています。これについては次回、詳しく紹介したいと思います。