ピティナ調査・研究

03 都市のピアノ音楽風土記  パリ その2

ピアノの19世紀
音楽雑誌に見るパリのピアノ音楽の状況

19世紀前期のパリは文字通り動乱の時代でした。フランス革命に続いてナポレオンの台頭、いわゆる諸国民の戦争に続くウィーン体制下での旧体制の復活、そして1830年の7月革命、さらに1848年の2月革命と、めまぐるしく政権が変動する中でピアノはどのように普及していたのでしょうか。

19世紀前期のパリで刊行されたピアノ関連の音楽雑誌としては、「ジュルナル・ドイテルプ」(1813-1827)、「アルバム・ド・ピアニスト」(1827-1838)、「ジュルナル・ド・トルバドゥール・プール・ピアノ・ウ・アルプ」(1807-1815)などがあります。フランスでは音楽雑誌の刊行点数は多いのですが、個々の雑誌の刊行年は比較的短いものが多いようです。

これらの雑誌のうち、最初にあげた「ジュルナル・ドイペルプ」、訳しますと「ヨーロッパ雑誌」は内容がちょっと分かりません。続く「アルバム・ド・ピアニスト」は文字通り、ピアノ雑誌です。雑誌のバックナンバーが整っていないために5年分の内容しか分からないのですが、ピアノ曲のジャンルではロンド、変奏曲、幻想曲、カプリスといったジャンルが好まれていました。面白いのは作曲家です。1827年から38年というとショパンリストがサロンの寵児となり、評判を取っていた時代ですが、この雑誌でショパンやリストをさておいて、チェルニーカルクブレンナーモシェレスが人気を博していました。

このカルクブレンナーという作曲家は19世紀前期のパリでは重要な作曲家でした。彼はドイツのカッセルの出身ですが、1798年にパリ音楽院に入学し、パリでピアニストとして、作曲家として活躍した人物で、「ギド・マン」というピアノ教育機器を用いた指導を行ったことで知られています。ワルシャワからパリに出てきたショパンは彼の指導を求めたことは良く知られています。モシェレスもドイツ人で、その後、ライプツィヒ音楽院で指導に当たった作曲家でピアニストですが、彼はショパンが3曲の練習曲を献呈したことでも知られています。チェルニーはウィーンの作曲家です。彼の名前は練習曲でしか知られていませんが、実に多彩なピアノ作品を残しており、パリでも彼の作品が演奏されていたことが分かります。ショパンやリストよりもチェルニーやカルクブレンナーらの作品がもてはやされたということは、いわゆるヴィルトィオーソの音楽と、音楽愛好家の音楽はまったく区別されていたことを示しています。

パリではどのような作曲家が人気を博していたのでしょうか。上記の「アルバム・ド・ピアニスト」で取り上げられたピアノ音楽の作曲家の一覧を示してみたいと思います。

チェルニー、カルクブレンナー、モシェレス、ショパン、リスト、メロー、ペイエ、ピクシスタールベルクベルティーニデーラーフィールドフンメルメンデルスゾーン、オズボーン、リース、シュンケ

これを見てみますと、フランス人の作曲家を探すことが困難くらい、ほとんどがドイツ人作曲家で占められています。そのなかでメローとペイエはフランスの作曲家です。ジャン・ニコラ・ル・フロワ・ド・メロー(1767-1838)という作曲家で、彼は教会のオルガン奏者兼ピアニストで、ピアノソナタや幻想曲などを作曲したことが分かっています。彼の父親、ニコラ・ジャン・ル・フロワ・ド・メローはオルガン奏者で、彼の息子ジャン・アメデ・フ・フロワ・メロー(1802-1874)も作曲家です。この息子は「60の練習曲」の作曲で知られ、これはパリ音楽院での教育に正式に取り入れられています。一方、ペイエについては良く分かりません。

「ジュルナル・ド・トルバドゥール・プール・ピアノ・ウ・アルプ」はピアノあるいはハープのための音楽雑誌です。このタイトルからも分かりますように、音楽の愛好家対象の雑誌で、ピアノでもハープでも演奏可能な楽譜の紹介になっています。この雑誌で掲載されているものはすべてが、オペラのアリアや歌曲の編曲です。耳にしたいことのある旋律が、本当に平易に演奏できるように編曲された作品が紹介されております。

ロンドンでは産業化の発展と共に大衆文化が進み、娯楽対象のピアノ音楽が主流を占めるようになりますが、大衆化という点ではパリも同様の傾向にあったことがわかります。しかし、音楽の環境がロンドンとパリとでは何か異なるものが感じられます。パリではフランス人作曲家のピアノ作品が少ないことだけではなく、ロンドンではあれだけ多種多様な舞曲が見られ、また人気の歌曲による変奏曲がイギリス人の作曲家によって手がけられていたのに対して、その点でもパリは傾向を異にしています。パリは、交響曲やピアノ作品など器楽作品はドイツ人作曲家、オペラはロッシーニに代表されるイタリア人作曲家が演奏会の舞台を占めていたのです。