音楽を「学ぶ」理由とは何か? 後編:現代人が「クラシック音楽」を聴き、学ぶ理由
後編:現代人が「クラシック音楽」を聴き、学ぶ理由
飯田有抄(クラシック音楽ファシリテーター)
こちらのサイトを訪れ、この文章を目にされているあなたはおそらく、ピアノや「クラシック音楽」と呼ばれるジャンルの音楽に関心があったり、携わっておられるのだと思います。そんなあなたが日頃、だれかと話しているときに、このような言葉を耳にすることはないでしょうか。
「クラシック? 私には高尚すぎてわからない」
音楽で繋がるコミュニティの“一歩、外”に出てみると、意外と「クラシック音楽」=高尚、難解、取っ付きにくい、などといったイメージが、一般的には根強くあることに驚かされます。クラシックもポップスもロックも、基本的には西洋音楽の調性や機能和声のシステムによる同根のものですが、クラシックの作品は長かったり、楽器や編成による音色が多様であったり、強弱の幅が大きいものがあったりと、非常に情報量の多い音楽です。さらには宗教、文化、風習といったコンテクストを色濃くまとった作品であれば(たとえば交響曲第○番というようなタイトルのない絶対音楽や、タイトルがあっても「ミサ・ソレムニス」「レンミンカイネン組曲」という言葉が付いていたりすると)、なおさら“敷居”を感じ、「私にはわからない」という見えないシャッターが下ろされるのも無理はありません。
しかし実際には、現代を生きる私たちは、ほぼ生まれたときから「ドレミ」の鳴り響く環境に育ち、学校の授業でも音楽作品に出会ってきました。ただし、それが当たり前の環境となったのは、ほんのここ100年以内のことでしょう。 近代化とともに西洋音楽を取り入れた日本。それまで三味線や太鼓や尺八の音楽文化を生きていた人々にとって、西洋音楽はまさに異文化との接触だったことは言うまでもありません。しばしば「音楽は世界の共通語」などと言われますが、それは少し乱暴な言い方で、やはり音楽にも言語の文法に似たある種のシステムがあります。ドレミファソラシドという『音階』も、それに基づくハ長調やト短調といった『調性』も、開国以前の日本の音楽にはなかったシステムです。それらに歩み寄るには、先人たちによる長年の研究や努力や工夫のプロセスを要しました。1879年に音楽取調掛という、今の東京藝術大学の前身にあたる音楽教育機関が創設され、西洋音楽の文法を解きほぐしながら普及がなされていったのです。
「クラシックの作曲家」として一般的にイメージされるのは、音楽室に肖像画が飾ってあるバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ショパンといった作曲家たちでしょう。 彼ら17~19世紀の作曲家たちの音楽は、上述のような音階や調整や機能和声に基づくものです。そのシステムに則れば、音階固有音や、それによって形成される三和音の一つ一つに「意味」や「機能」が見出されます。たとえば、あえてそのイメージを言葉にすれば、「ドは安定感、レで問題提起、ミで確認、ファで広がり、ソで毅然とした態度、ラで揺らぎ、シで願望を抱いて、ドに戻って解決し再び安定」といった役割があると捉えられるかもしれません。三和音にすると、耳で感覚的にわかるもの、感じ取れるものもあるでしょう。 作曲家たちは、漫然と音を手繰って曲を書いていたわけではなく、そうした音の役割や、ある種の文法を把握・意識しながら、充実した内容の作品を作り上げているわけです。よって音楽作品とは、才気溢れる人々が発した、濃密な文化的メッセージです。作曲家たちが、知性と感性とを総動員させながら練り上げた芸術であり、彼ら個人のメッセージや時代の空気感にも満ち溢れた創作物です。
今、私たちがその作品に向き合うことは、とりもなおさず彼らと対話することにほかなりません。音楽は、言葉ほどには明瞭に意味内容を伝えはしませんから、受け取る側にも、上述のような音楽の文法を共有し、想像する力も必要です。「音楽は国境を超える」と言われますが、作曲家たちの魂と感情のエッセンスが凝縮された濃密な作品を、一度聴いただけで「楽しい」「素敵」などと思えないとしても、ごく自然なことだと思います。ですが、明治期以降、私たちはそれを受け取る力を、身につけてきたはずです。「遠い異国の、遠い昔のものだし、高尚でわからない」という先入観に、縛られ続ける必要はありません。あえて今、「クラシック音楽」と呼ばれるような芸術と、わたしたちが向き合うことの意味や良さとは、まさに遠い異国の遠い昔の人たちとも、心通わせるコミュニケーションが測れるということ、その力を鍛えられるという点にあるのではないでしょうか。
現代の世界が抱える様々な問題、社会が取り組まねばならない課題に向き合うには、互いへの共感力、他者理解への努力、多様性を認め合う想像力が求められています。大げさと思われるかもしれませんが、音楽芸術に向き合い、心震わせ、想像性・創造性に共感することは、私たちが今を生きる力を鍛えることにつながると思うのです。
かつて、ピティナ事務局長の加藤さんより、大変興味深いエピソードを伺いました。来日中のあるピアニストが、自爆テロのニュースに接したとき、『彼(テロリスト)には音楽が足りていないんだね』とさらりと一言おっしゃったというのです。おそらく、他者に共感する能力の不足がこうした惨事を招いてしまった、という意味ではないかと思います。
人が音楽に出会い、楽譜に込められた作曲者の意図を解釈することも、演奏を通じてそれを表現することも、あるいは人と合奏することも、他者の気持ちを汲み取り理解するコミュニケーションに他なりません。それこそが音楽を「学ぶ」こと、深め続けることの大きな意義と魅力ではないでしょうか。
(後編 おわり)