ピティナ調査・研究

前奏曲集第1巻 作品とその価値観について

ドビュッシー探求

 前奏曲集第1巻は、1909年から1910年の間のたった3ヶ月間で、ドビュッシーが47歳の頃に作曲された、ピアノ音楽史上の最高傑作の1つです。詳しい情報は、たくさんの書物が出版されているのでそれを参照していただきたいのですが、特にここでぼくが感じる曲全体についてのイメージをお話ししておきたいと思います。
 この作品集のあと、ピアノ曲の大作として、前奏曲集第2巻12の練習曲が作曲されますが、技術的な意味では優しい順に並べれば、前奏曲集第2巻、前奏曲集第1巻、12の練習曲だと思います。音楽的な難しさはどれも一長一短であまり差はありませんが、やはり12の練習曲が一番難しいと思います。前奏曲集第1巻は、有名な、第8曲「. . . 亜麻色の髪の乙女」も含め、1曲も易しい作品はありません。しかし、その難しさの本質は、指を速く動かすとか、大きい音を鳴らすとか、そういった肉体的な能力のことではありません。ニュアンスとしての音量として、無音からピアノまでの狭い幅に、ドビュッシーはたくさんの異なる段階を演奏者に要求します。また、音色や音質についても、きわめて微妙な質にいたるまで多くのものを要求します。ロマン派の作品のように、巨大な盛り上がりなどを作って演奏効果をもたらすことは一切ありません。

 演奏するにあたって、とても大切なテクニックが、実はバッハの対位法的な作品から得られるということです。3つ以上の声部をもつバッハのフーガなどを演奏することは、すべての声部を同格に扱い、しかもすべてを独立させて同時に演奏し、しかも縦の響きとしての和音や調の揺らぎも同時に演奏するということですが、まさに、この技術がドビュッシーの前奏曲集第1巻を演奏するにあたって必要だと思います。ドビュッシーの作品では、バッハの対位法的な作品において単音の連続で作られていた声部が和音で作られることになり、広い音域に和音という声部が重層的に響くからです。従って、この点を理解していれば、ペダルの使い方もおのずと決まってきますから、個別のペダル技術などを学習する必要はなくなるし、楽器ごとの差があっても耳で聴きながら調整することができると思います。
 さらに大切なこととしては、作品のもつ趣味性です。バッハをはじめとしたバロックの多くの作品にキリスト教についての教養が必要であることと同じように、ドビュッシーのこれらの作品を演奏するにあたり、ギリシャ神話、古代ギリシャ彫刻、古代ギリシャ建築などに親しむことがとても重要だと思います。また、それによって、20世紀前半の多くの作曲家の趣味性を理解するヒントが得られると思います。

 絵画の世界を考えてみましょう。ある時代まで、人物など、限られた対象しか絵画の主題になりませんでしたが、近代に近づくに従って、風景など、あらゆるものが絵画の主題になっていき、最後は具体的な対象というもの自体が抽象化されていきました。音楽の世界ではどうでしょうか。ロマン派までは、トニック、ドミナント、サブドミナントなど、いくつかの和音機能があったにせよ、結局、すべての和音はトニックに収束する、すなわち、トニックが主題でした。また、主題の扱いにしても、バッハのフーガやベートーヴェンのソナタに代表されるように、1つの主題やモチーフが主体、他が客体でした。構造についてもある部分を頂点にして全体を作るといった構造が価値基準でした。旋法は、バロック以後、長調と短調といった陰陽の2元論的なものとして扱われてきました。しかし、ドビュッシーはこういった和声や主題や構造の価値観を、絵画などの変遷と同じように変えてしまいました。すべての和音は主体としての価値を持ち、ドミナント和音などの機能は薄められました。いくつか出てくる主題も、互いに優劣をもたずに主張します。構造も、頂点を意識的にゆるめました。旋法も、教会旋法、5音階、全音階などのMTL(移調の限られた旋法)などを柔軟に用い、メロディーの多様さなどを生み出しました。こういった新しい価値観のもとに高い芸術性をもった作品を次々と生みだした作曲家、それがドビュッシーなのです。
 そういったものがすべて用いられている傑作がこの前奏曲集第1巻をはじめとした音楽です。20世紀最高の作曲家がなぜドビュッシーなのか、その神髄がこの作品集に凝縮されているとぼくは思っています。