総説その9:音楽・楽譜の背後に秘められた情報
レコーディングについて述べるにあたり、敢えて読者の問いを想定して、私なりのグレン・グールド論を述べておきたい。
彼は明らかにミスの修正、という次元で編集をとらえている人ではない。グールドによる解釈の悉くが作曲家の代弁者としての演奏ではなく、徹頭徹尾グールドの作品と化している。従来の因襲的でステレオタイプな伝承に対する、強力なアンチテーゼとして作用したそれらが〝解毒剤〟として果たした役割は大きい。
即ち彼は「レコーディング・トランスクリプション」なる20世紀ならではの、未踏の領域を開拓したのである。この才人は時代の絶妙なタイミングの中で、その必然性を体現・開花させることができた。それは彼一代で完結すべき性質のもので、第2、第3のグールドが出てくる意義や可能性は薄いだろう。しかし、解毒剤は〝毒〟を前提としなければ用を作さない宿命がある。未知の作曲家をいきなりグールドの演奏で聞きたいか、といえば、それはどうだろうか。「演奏のクリエーター」というスタンスは、基本的に曲が知られていなくては、インパクトを与えることが困難であろう。
さて、1821年である。10年単位での大まかな世代色が存在するということは、年ごとのキャラクターがあるのも当然といえる。
時代や国別の見分けは容易でも、年単位・地域単位となると難かしく感じそうだが、学生時代を振り返れば誰しもが察しがつく。
自分の同学年に比べ、一級上、一級下では明らかに気質の違いを感じた筈だ。また、複数の小学校から生徒が集まる中学校では、出身校の性格がはっきり違うのがわかる。同じ市内でさえ、これだけの差が生まれるのである。
作曲家に限らず、人は総て時代(時間)と風土(空間)の交点としての性格を持つ。殊に毎年巡り来る年の性格は、先天的に作曲家の本質を決定づける最重要データである。
従って、生れ年が一年違うと、作曲家のとらえ方、表現のあり方が全く変ってしまうことになる。従来の学術では立ち入れなかった領域だが、十干・十二支・九星からなる東洋占術のシステムに照応させることで、作曲家の本質への正確なアプローチが相当にピン・ポイントで可能となる。これは人智を超えた、自然の摂理であって、疑う余地のないものである。
詳しく述べる余裕はないが、長年にわたり膨大な楽譜量に接していると、楽譜の「譜相」が読めてくる。任意に開いたページから、それがどこの国の、どの世代の人が何年頃に書いた作品か、という視覚的・書法的な推定から、「気」を読むことで作曲者の寿命の長短・病いの兆候までもが伝わることがある。楽譜は単なる音符にとどまらず、想像を超える情報量を背後に秘めているのに驚く。
もう一つ、重要な指摘をしておこう。実際のところ、名前を見るだけで、作曲家のおよその察しはつけられる。
例えばベートーヴェンの「第九」を聴けば、それが「ショパン」や「プロコフィエフ」のような発音と一致しないことは誰にでもわかる。音霊の作用により、作曲家の名前とその作品の響きは共振しているのである。
私が滞仏時に印象的だったのは、ネイティヴなドイツ人が「ビートゥホーヴェン」と発音し、フランス人は「バック」「モザール」としてとらえていたことだ。これは国によって異なる作曲家像の認識を実感させた。
こうした説は一見突飛なようでも、私が真実を述べているか否かは容易に伝わるであろうし、それどころか、同じ感覚は読者にも一瞬にして〝ダウンロード〟されていく。
即ち、人間は個別に存在しているかに見えて、巨大な意識の連帯の中にあり、故に感動を分かち合えるが如く、一人一人が得た経験値や成果は深い所で共有されている。だからこそ、人は規格品のように一律であってはならないことになる。それは少し心を澄まし、利己を離れてみれば自明であろう。
人に会おうが会うまいが、人間は結局どう転んでも孤独にはなり得ない状況下にある。少なくとも望まない限りは。
令和の時代は霊性と和する時代となって、これまでの物証を積み上げていくような論理的理解から、直観力による洞察が常識となっていくのを予感する。元来アートの本懐は「あの世」の情報を「この世」の手段で伝えることにあり、言語や分析を超えたものだ。つまるところ、「あの世」にプロトタイプを持たないものは偽物だということだ。音楽は顕幽両界をつなぐ掛け橋なのである。
※編集部より・・・筆者による作品解説と演奏動画を同時に公開しています。
以下のピアノ曲事典の各ページもぜひ、併せてご覧ください。
キール :変奏曲とフーガ Op.17
金澤 攝 :即興曲 嬰ハ短調――モシュコフスキ風に
金澤 攝 :異国風舟歌――ハープまたはピアノのための