総説その8:「再現」が無かったころに響いた音楽とは
オーディオ・ブームが盛んなりし頃、よく録音の編集を映画の編集になぞらえて語られることがあった。しかしこれは全く次元の違う話である。音楽でそれを云うなら、あくまで映画の如く、予め編集を前提とした、実演不能の新作・脚本を用意する必要がある。先人の作品をそのまま使うのはフェアではないだろう。嵐のようなミスタッチをものともせず、聴き手に圧倒的な感銘を与えたとされるアントン・ルビンシテインの例を考えれば、ミスタッチが気に障るような演奏自体、音楽に入り込んでいない証拠といえる。
ある人が自らの体験や思いを真摯に語る時、その口調が流暢でなくとも、人は引き込まれるのが普通である。しかし、体験のない第三者が、渡された原稿で同じ内容を朗読するとなると、読み違いは致命傷となる。演奏も同じであって、やたらに滑舌良く、それらしい演技力を加えれば加える程、却ってしらけかねない。その差は言葉の裏にある、リアリティや奥行きの無さがどうしようもなく伝わってしまうことによる。
それも原稿の意味が理解できているならまだしも、言語を解さない外国人が発音記号を読み上げる類の音源を、さらに細切れにして編集されたりすると、もはや理解を求める方がおかしいことになる。
演奏という行為は、奏者の創意や経験、人格や志操といったものまでが丸見えになってしまうのだ。どれだけ速度や強弱、タッチやフレージング等を外部から整えても、〝嘘〟はばれてしまう。
なぜなら、人は音楽に「発音」ではなく、その背後に息づく「物語」を聞いているからだ。作曲家が著した物語の代弁者、代行人たり得るには、原則として演奏者も同レベルの「経験者」であることが求められる。
要は〝他作を自作としてとらえる〟能力が肝要で、その意味でも、作曲や即興の心得は音楽家の原点であり、必須であると私は信じる(※)。即興にミスタッチがないのはなぜか?この問いは演奏芸術の本質を考えさせる。
改めて指摘しておくべきことは、録音が存在しなかった19世紀以前の音楽家にとって、同じ演奏を反復するという発想は無かった、ということだ。再現という概念がない時代の音楽のあり方を、現代の人間が想像するのは難しい。当然そうした時代の作品は、本来録音すべきではない筈である。
それを敢えて録音して鑑賞しようとする以上、守るべきマナーとして私が感じることは、少なくとも編集は一切行わず、時間軸の流れの中で生じた営為をそのまま提示することである。つまるところ、それらは「録音がないからこそ」成立した作品だからだ。
逆に言うなら、録音システムが登場して以後の作品は、録音される可能性を前提とした時代の産物ゆえに、編集も可、とすべきだろう。
こうした考察は、古楽器のレプリカを演奏するようなこと以上に、史実の重大な核心を突くものと感じられる。ただし、「商品」として仕上げる上で、良識的な範囲内での編集まで否定するのは酷かもしれないが。