ピティナ調査・研究

総説その7:間違いが無ければ「良い」のか?

生誕二百年を迎える音楽家群像
総説その7:間違いが無ければ「良い」のか?

今日のデジタル編集はいかなる修正も可能とみられ、この〝ミスさえなければ完全〟という考え方は、芸術的な感性を晦ましてしまう点において、デジタルとコンクールがもたらした最大の陥穽である。どこまでミス無しで弾けるか、といったテレビ番組は、まさに時代を象徴したものだ。
専らLPレコードを鑑賞している私にとって、CDはあくまで「参考音源」に過ぎず、耳は自動的に「鑑賞」から「チェック」へと切り替わる。過去の大演奏家による同一の録音さえ、LPとCDの物理的な重量とサイズの差が、そのまま音に反映するようだ。
そうしたCDのみを聴いてきた世代の演奏が、勢いCDのように即物的で、音質やタッチが均一化するのは必定である。教える方も弾く方も、原初の音楽がもはや分からなくなっているのではないか。正確さや明晰さを至上と考える演奏関係者は、近い将来登場するであろう、AIプレーヤーに一掃されないとも限らない。アナログとデジタルを上手く使い分けられなかった失策は、音楽芸術の根幹を揺るがす事態を招いてしまったのだ。
人間の本質がアナログである以上、デジタル化して良いものと悪いものとの見極めは、文化的な観点から、今後も慎重な判断を要する問題である。

こうした件に関して、先般興味深い著書を目にした。戦前、SPレコードの蒐集家として日本有数のコレクションを誇った、さる著名人の夫人の手記)である。その膨大なレコードと追及を極めた再生装置は、無情にも東京大空襲で烏有に帰してしまう。それにもめげず、彼は戦後もレコードを、今度はLP盤を集め始める。ところが何故か以前のような感動、感激がないという。初めは年齢のせいかと考えるが、夫人も同様の感を抱き、その原因は録音テープの編集作業にあるらしいことが判明する。
ミスの無い、別の演奏テープを繋ぐ行為は、聴覚的に問題がないようでも、編集の余地のないSP盤に馴染んだ人の耳には違和感が生じるのである。これは最初からLPを聴いていた世代にはわからないだろう。
演奏する側にしても、何があろうと一曲を通演する覚悟で弾き始めるのと、間違えたら弾き直せばよい、という気で弾くのとでは燃焼や集中の度合いにおいて、同じである訳がない。
いわんやCDのように、別の演奏どころか音程や速度、音の増減すら自在に操作できる技術をもって合成させた音源など、人間の生体機能ではあり得ない瞬間を連続して聴くことになる。これは正常な神経にはたまったものではあるまい。このようなものを理想の演奏と信じ込み、懸命に近づこうとする演奏家は悲惨である。先述のコレクター氏によれば、SP盤がLP盤になったことで、「音楽的」が「音響的」に変化したという。そして、演奏家は小粒になり、心で弾く人がいなくなってきた、と。

  • 野口昭子著 『時計の歌』(1986)