総説その5:レパートリーが有名曲偏重に至る事情
クラシック音楽界の価値観が、結局は知名度やブランド性の上に成り立っているが故に、20世紀の音楽産業や音楽教育の従事者にとって、直接利益に結びつかない情報が切り捨てられてきたのは当然のなりゆきではあった。
有名曲を弾くことが演奏家の王道であり、ステータスであるといった考え方は、コンサートの集客や、レコードの販売を目的とする事業関係者の戦略と、それらを専ら「教える」ことを生業としてきた指導者たちの利害が一致、クラシック業界を支えるベースとなったことで生じた価値観といえよう。有名曲以外に関わると、双方にリスクが生じてしまう。要するに勉強しなくてはならなくなるのである。
従って「商品」となるのは、音楽ではなく、演奏家に設定される。その商品価値を推量るための試金石が「有名曲」という訳だ。幸い大衆はブランドに弱いし、「スペア」には不自由しない、といった状況から、この消費のサイクルがクラシック社会を成り立たせてきた、という構図である。
世のピアニストのレパートリーが大同小異になってしまうのは、学習期における教材がほぼ決まっており、受験やコンクールの中心課題曲が常に変わらないためである。
幼少期からピアノを習い始める人が多いということは、本人の意思なのかどうかさえ定かでないことを意味する。音楽の感動を前提としているケースは多くはなさそうだ。
私が実感している、幼年期の音楽教育における一番の盲点は、鑑賞の楽しみを与えないことにある。審美感覚の育成は演奏教育の原点ではないのか。おいしい物を食べさせないで、いきなり包丁を持たせても、子供は何を目標に作っていいのかわからない。
レッスンが始まると、間髪を置かず、次々に課題が与えられ、自発的な好奇心は封殺される。年月を経るうちに、先生の価値観を絶対的なものと刷り込まれ、誰もが同じようなルートを辿るのである。
大体ピアノ音楽の基本レパートリーとされる曲目は相当数あって、それを一通りクリアするだけで、およそ人間の一生分の時間と労力を費やす仕組みとなっている。「柵の外」へは容易に出られないシステムなのだ。
加えて云うなら、ピアノ以上に深刻なマンネリ状態にあるのがチェロである。ソロ曲の基本レパートリーがピアノの一割程度しかなく、それらが一向に拡がらないのは、恐らくアンサンブルの機会の多さが関係している。
いつもながら、バッハの「無伴奏」、ベートーヴェンとブラームスのソナタ、シューベルトの「アルペジョーネ」、これらを含まないリサイタルは珍しい。協奏曲は「ドボコン」、アンコールは「白鳥」、現代曲もショスタコーヴィチまで。その他数点の定番曲以外にレパートリーがいくつあることか。
バッハやベートーヴェンにひたすら取り組む人たちからすれば、弾く程に際限のない深みを感じる、と云いたいのだろうが、それはバッハに限った話ではない。むしろ本人が深みに嵌まっていることが問題といえる。
「無伴奏」に不滅の価値を与えたカザルス自身が、同世代の作曲家たちと数多く関わり、彼らの紹介に努め、自らも曲を書いていたことを思えば、それに倣うべきであろう。
とりわけ20世紀にはチェロの傑作が山のように書かれているのに、その価値を伝える人や機会が少な過ぎる。
チェロに限らず、同時代の作曲家に無関心な演奏家は「職務放棄」というべきで、プロとしての使命を危機に晒していることに気付かなくてはならない。