ピティナ調査・研究

総説その3:「本物」の音楽はどこにある?…作品への敬意は持つべきか

生誕二百年を迎える音楽家群像
総説 その3:「本物」の音楽はどこにある?…作品への敬意は持つべきか

作曲家としての自分自身を原点として拡がった、この壮大な音楽史ネットワークにおいて、私は関わることのできた総ての作曲家の作品を、今では「自作」としてみることができる。自作と他作の区別は既になく、必要があれば、誰の「代筆」でも可能な気がする。
作曲家としての自分自身を原点として拡がった、この壮大な音楽史ネットワークにおいて、私は関わることのできた総ての作曲家の作品を、今では「自作」としてみることができる。自作と他作の区別は既になく、必要があれば、誰の「代筆」でも可能な気がする。

作曲家への敬意はいいとしても、〝楽聖〟などと崇めてしまうと、却って演奏者との意識が隔たり、表現に手が届かなくなりかねない。一方で無名作曲家を二流・三流として見下すのも論外である。彼らの作品には時代を先取りし過ぎたもの、演奏家が対応できなかったもの、ビジネスの観点から敬遠されたもの、何らかの事情で封印されたもの等々が存在する。

格別なものが容易に社会に流通しないのは音楽も同様である。優れた作品は自然と残るかのように考える人があるが、作曲家が名曲さえ書けば、演奏家が駆けつけて、すぐに取り上げてくれると思っているのだろうか。最初に誰がどうやって見出し、どのように伝えてきたのか。時代の淘汰を経て、真に優れた作品のみが「クラシック」として選ばれてきた、といった大嘘に、専門家を含め、良識ある人々がいとも簡単に騙されてきた。こうした主張は、真面目に歴史を調べていない証拠である。

私にとって作曲家は知名度に関係なく、本物と偽物しかない。その本物が集まることによって見えてくる、時代や風土のヴィジョンが確かに存在する。同じ時期に同じような作品が複数の作家から生み出される現象は、個人を超えた時代や風土の力に他ならない。個々の作曲家をパーツとして展開するマッシヴな景観こそ、歴史的精華の実際であろう。

それは宇宙から地球を眺める感覚に近いかもしれない。どの国が偉大か、という問題ではないのである。

19世紀・20世紀において、音楽史を代表するいくつかのシーンがある。中でもピアノ音楽に特化した世代が、1810年代、1820年代の20年間に生まれた人々だ。具体的にはショパンを筆頭に、アントン・ルビンシテインをしんがりとしている(厳密には、ノルベルト・ブルグミュラーからアドルフ・シュレッサーまでを指す)。

ショパン、シューマン、リスト、タールベルク、アルカン、ヘラー、ヘンゼルトといった、ピアノ音楽の代表者たちの生年は皆’10年代の前半に集中していて、彼らがピアノ音楽の中心たり得ているのは、楽器自体の青春時代と彼らのそれが、宿命的に結びついていることによる。楽器を生み出す時代の力は、それにふさわしい楽曲を同時に生み出すものなのだ。

彼らの個性は表面的にまちまちに見えながら、ショパンの僅か一歳年長のメンデルスゾーンを並べてみると、明らかに世代の境界線を跨ぐ印象がある。1809年生れのメンデルスゾーンは色彩感が消える上に音楽の方向性も異なる。また、この’10年世代は、オペラの刷新・中核世代とも合流している。フェリシアン・ダヴィッド、トマ、ヴァーグナー、ヴェルディ、グノー、オッフェンバックらが顔を揃え、ピアノ界共々、アグレッシヴな改革世代を形作る。この境界線は無論オペラ界にも共通し、それを越えるとベッリーニやグリンカの世代となる。

「総説 その4」へ続く