ピティナ調査・研究

『生誕二百年を迎える音楽家群像』―未開の1820年代世代を拓く」解題

生誕二百年を迎える音楽家群像
『生誕二百年を迎える音楽家群像』
―未開の1820年代世代を拓く」解題

この企画は、金澤攝さんが取り組んで来られた、19世紀以降の体系的な西洋音楽探究の新たな一幕です。とはいっても、これまでの金澤さんの活動や、その動機が分からない人にとってはピンと来ないでしょう。そこで、まずは金澤さんの活動の趣旨を簡単に述べてみたいと思います。金澤さんは、公的な教育やコンクールといった現代的制度の外側に軸足を置きつづけてきた音楽家です。ピアノに関しては宮沢明子氏に師事したのち、パリに渡ってからはフローレンシア・ライツィン氏に師事するなど、間接的に組織的教育のもとで学ばれたことは、ご本人が「総説」で述べられている通りです※1。通例であれば、そこから音楽院などで教育を修め、クラシック音楽の国際コンクールで入賞するなどしてピアニストとしてデビューするのが20世紀のピアニストのキャリアの「定石」でしたが、金澤さんの場合は「通常のルートとはまったく異なる道筋から山頂に歩みを進めて」※2現在に至っています。

 とはいえ金澤さんの歩むその道は、獣さえ通わない「未開の」地であることが殆どです。2015年に刊行された著作『表紙の音楽史 楽譜の密林を拓く――楽譜デザインに見る時代と風土 近代フランス篇 1860−1909年生まれの作曲家たち』のタイトルにも見られるように、金澤さんの芸術家としての基本姿勢は、まだ誰も見ていないものを現出させるということです。似たようなことを表現する際に、金澤さんが使われる独特な表現に「秘められている」という言い回しがあります。2005年に刊行された最初の著作のタイトルは『失われた音楽――秘曲の封印を解く』の「秘曲」には「忘れられた」「知られざる」とは異なる独特のニュアンスが感じ取られます。この「秘められ」という考え方は、ある種の宗教性とも結び付いていており、曰く言いがたい音楽のスピリチュアリティへと読者を誘います(「総説」における東洋占術に関する言及にその一端が垣間見られます)。こんな風に書くと、いかがわしいオカルトではないかと訝りたくなるかも知れません。しかし、音楽のロマン主義を「拓いた」ドイツの作家・作曲家E.T.A.ホフマンは、まさに音楽(器楽)こそが精神の「無限の王国」へと聴く者を誘うのだと語り、オペラが栄華を極める時代にハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの器楽に至上の価値を置いたのでした。社会における芸術の位置づけは、言語や現実的認識では捉えられない世界へと私たちを誘うことに一つの大きな価値があり、芸術体験を経たのちに、現実世界を違う角度から認識できるようになるということは、誰しも体験したことがあるのではないでしょうか。

 とは言っても、金澤さんは、ホフマンのように偉人像を作り出すことを目論んでいるわけではありません。むしろ、これまで人々が見落としてきた、あるいは見なくてもよいと何かしらの理由をつけて片付けてきた部分に光を当てようとします。これは、単に珍しいものを見つけて楽しもうとか、「知られざる」作曲家にことさら権威を与えようということを企図しているわけではありません。そうではなく、「ショパン」や「シューマン」といったモニュメントの間に拡がっている空白地帯に、本来拡がっているはずの鳴り響く歴史パノラマを体感しよう、というのが金澤さんの歴史探究の趣旨です。そして、新しく拓かれた歴史的眺望は、ほんとうに語られるに価しないものなのか、という問いを私たちに突きつけます。

 この問いかけを発するまでには、途方もない労力が注ぎ込まれます。金澤さんはヨーロッパを中心に楽譜を収集し、先行する録音や整理された現代譜がないピアノ作品を、日々初見で演奏しています。そして、そこから出版年代、作者の生年月日、活動地域、出版社、被献呈者、書法、作曲及び演奏様式などいくつもの要素を膨大な記憶の中のデータで照合しながら作品に判断を下し、録音すべき曲を選び採ります。さらに、プログラムの流れを考えて作品をふるいにかけて、最終的な選曲が終わります。そこから練習と暗譜が始まり、ようやく一つの「景観」が提示されます。このプロセスに、迅速な作品の理解(分析)力、正確で持続的な記憶力、時系列に沿ったプログラムを構築する創造力、身体能力、審美感覚が総動員されることは言うまでもありません。

「景観」の提示法は、演奏会か録音・録画の二通りということになります。今回は、COVID-19の収束が見込まれない中、文化庁の助成を受けて演奏収録が行われました。ここに紹介される金澤さんの文章は、限られた枚数を頒布する予定の7枚組CDを前提としたもので、ピティナのYouTubeチャンネルでは、その一部が公開されます。各CDには、今年生誕二百年を迎えるピアノ音楽作曲家一人が割り振られています。ショパン、リスト、タールベルク、アルカンら華々しい1810年世代に続く1820年世代は、彼ら19世紀ピアノ音楽の立役者の影の中、何を考え生み出そうとしたのか。七人七様の解決の道筋の中にある共通点とは何か。そのような「歴史的な」聴き方もまた、一興ではないでしょうか。

上田泰史(音楽学)


  • 詳しくは高久暁「どこまでもsui generisに――異能の音楽家・金澤攝の肖像」(金澤攝『失われた音楽――秘曲の封印を解く』所収)を参照のこと。
    版元の龜鳴屋の書籍ページ
  • 同前。