ピティナ調査・研究

総説 その1

生誕二百年を迎える音楽家群像
総説 その1

 ここには1821年に生れた作曲家7名のピアノ作品が、ディスクに各1枚ずつ、年代順に収めてある。彼らは忘れられたというより、広く知られることがないまま、姿を消した才能の士たちである。
新型コロナの渦中にあって、演奏は私が自宅で通演・収録しただけのものだが、各作曲家の特性や魅力は伝わるだろう。私には彼らの音楽がオリジナリティ、クオリティ、その魅力において、名の知れた作曲家たちより劣っているとは思えない。同年生まれの作品をこれだけ集めた意図とは何か。なぜ1821年なのか?

 既に40年以上にわたり、私は一貫して「音楽史の闇」を探り続けてきた。それはマイナー・コンポーザーの発掘といったレベルを超えて、歴史の総体を眺望する試みへとシフトしてきたのだった。
事の発端は作曲家を志して15歳でパリへ渡った折、音楽家の知名度とその価値はどうやら別物らしい、と気付いたことによる。
私を感動させたのは、あまり知名度の高くない作曲家や作品が多かった。メジャーな音楽家としてリアルタイムで社会の評価を得るためには、時流を読む力、セルフ・プロデュース能力が不可欠なのだろう。そうした才能に長けた人たちの作品に、私はしばしば恣意的な気配を感じ取った。
ともかく前衛の最先端に同調していた当時の私には、クラシック音楽自体が興味の対象外となっていた。ピアノの指導を受けることが苦痛になっていたのを思い出す。

 そうした中、私は共感する現代作曲家たちの楽譜を可能な限り集め、その生涯の創作史をドラマとして読む愉しみを知った。そこには必然的な展開があり、それ自体が一つの作品として私を魅了した。
作曲家の思考や進行方向が手に取るようにわかるこの創作の旅路は、小学生の頃夢中になった、始発駅から終着駅へ向う鉄道の旅と重なった。かつてそれぞれ個性的だった駅舎の数々が、魅力的な音楽作品と化して私の前に立ち現れたのである。
さらに彼らのルーツを知ろうと、師弟・交友関係にあった作曲家を追うことで、その源流や関連性が次々と明かされていく面白さにのめり込んでいった。
かくして多くの人脈的路線図が網の目のように拡がり、どんどん時代を遡っていったのである。こうなると、今度は作曲家が駅となって並ぶことになる。作品にしろ作曲家にしろ、両隣りの駅が何か、ということは大変重要な意味を持つ。あたかも隣り合う小節のように。
全体を知ることで見えてくる、個の意味と価値。こうした視点は、社会の中で自分自身を音楽家としてどう設定するのが望ましいか、という意識へと繋がった。即ち、如何にして調和に寄与できるか、自信を持って生きていけるのか、と。
因みに私がパリでピアノを師事したフローレンシア・ライツィン氏は、私にコンサート・ピアニストとしての将来を期待していたようだ。アルゼンチン出身でヴィンチェンツォ・スカラムッツァに学び、ニューヨークのジュリアード音楽院でワンダ・ランドフスカの薫陶を受けた彼女は、楽界の著名人との交流が多かった。後に関係者から聞いた話では、知己を通じて私をウラディミール・ホロヴィッツに師事させる考えだったという。
しかし、興味が無いものはどうしようもなく、著名作曲家の定番曲を繰り返し弾いて人生を送るなど、私には山手線を際限なく回り続けることぐらいにしか思えなかった。実際、それまでに聴いた有名曲は、ドビュッシー以降を除けば私に感動をもたらすことはなかったし、多くの人がより評価してくれた自身の作曲についても、なぜか道は開けなかったのである。
18歳の頃には名曲の発掘と紹介をライフワークにしようと決意。人への師事をやめて帰国、以来、孤軍奮闘が始まった。それは余りにも果てしない道のりとなった。

「総説 その2」へ続く