ピティナ調査・研究

第89話『水の戯れ(Ⅱ)♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。
まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船※1に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』※2の作曲は徐々に進む。2月初旬、鍵一は河井寛次郎記念館※3で陶芸家に出会った。
水の戯れ(Ⅱ)♪

「その、古伊万里の水甕は」鍵一は尋ねた。「どこかで見られますか」
「パリのルーブル美術館で。……それを見ると、いろんな人の顔が浮かぶの」
陶芸家の声に懐かしさが滲んだ。受話器に耳を押し当てて、鍵一はそのこころを聴いた。

挿絵

「まずは、江戸時代の陶工のこと……当時の日本の焼きものは、東インド会社の御商売の都合※4もあって、どうしても中国陶磁器の模倣になってしまうんだけど。その水甕には、日本古来の紋様や、絵付のあたらしい技法にチャレンジした形跡があった。ベストを尽くしたんでしょうね。
船乗りたちも良い仕事をしたと思う。彼らは伊万里港からインドネシアのバタビアを経由して、1年かけてロッテルダムの港まで水甕を運んだの。すごいよね。帆船はコントロールが難しいし、嵐が来ればどこへ漂着するとも知れない。海賊もうじゃうじゃいる。なんとかロッテルダムに辿り着いたあとは、陸路を馬車で。パリまで1か月は掛かったんじゃないかな。ぶじにマリー・アントワネットの御眼鏡に適って、水甕はベルサイユ宮殿の大広間に飾られたそうよ」
思い描いた薔薇色の空間に、鍵一はふとセバスチャン・エラール※5の面影を見た。神秘の国の水甕にどのような音色が映えるか、楽器製作者は巧みに計算したに違いない。

挿絵

「では、水甕はずっとベルサイユに?」
「いいえ、フランス革命で宮殿が襲撃されたとき※6、ルーブルに移されたみたい。他の美術品と同じように一般公開されていたんだけど、ナポレオンが失脚すると国外に持ち出されて※7。それから二百年間もヨーロッパ各地を転々と」
「長旅でしたね」
「そう、旅する水甕。割れたり欠けたりしながら。たくさんの人がそれを未来に運んできたんだよね」
うなづいて、鍵一はむずむずと口をつぐんだ。電話口の fermata ※8を、陶芸家は共鳴のしるしと捉えた。
「鍵一さんから『夢の浮橋』の話を聞いて、その水甕を思い出した。古代の名曲にも、水甕にも、なにかふしぎなちからが宿っているんだと思う。昔の人、今を生きている人、未来の人……たくさんの人を繋ぐちからが」
「……ぼくもそう思います」
今度は陶芸家が黙した。その背景に和やかな雨音が満ちている。受話器に耳を当てたまま、鍵一は庭を見遣った。猫のフェルマータの姿はなかった。水琴窟の鉢から、ほたほたと春の光が零れている。
「貴船は晴れてる?」話題はふわりと飛んだ。
「はい。そちらは雨ですよね」
「わかる?」
「雨の音が聞こえます」
「すごいね、窓を閉めてるのに。わたしが水玉模様のセーターを着てるせいかな?」
笑って鍵一は空を仰いだ。煙る青が、春の海の色に見える。古伊万里の湛えた水の色にも見える。『夢の浮橋』に由来するワインボトルの色にも見える。……晴ればれとした思案の彼方に、陶芸家の声が響いた。「そういえば」

挿絵

「鍵一さんの言うとおり、わたしの持っている絵巻物は『夢の浮橋』に関係があると思う」
「えッ、本当ですか」
「実家の土蔵に仕舞ってあったもので、あまり人に見せた事はないんだけど。よければ、週末に持っていくね。『鉄平堂』さんはご在宅?」
古美術商の都合を聞き、貴船の住所をたしかめて、電話は明るく切れた。
縁側に陽が射している。
うんと伸びをして、鍵一は春の午後を吸い入れた。耳の奥にはまだ、陶芸家の声がたゆとうていた。言葉は光を帯びて連なり、煌めく羅針盤として鍵一の手に有った。旅する水甕。パリのルーブル美術館。絵付。航海。ベルサイユ。革命。漆芸。水玉模様。たくさんの人を繋ぐちから。『夢の浮橋』の絵巻物……
離れの座敷に戻ると、猫はピアノの上でまどろんでいた。フサフサと撫でれば、しっぽがゆらゆらと応える。Très doux※9に弾き出した音色が、陶芸家のアトリエへ届くよう願った。

♪ラヴェル:水の戯れ ホ長調

つづく

◆ おまけ
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    第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
  • 貴船(京都市左京区)
  • ピアノ独奏曲『夢の浮橋変奏曲』
    鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されました。
  • 河井寛次郎記念館
    陶工、河井寛次郎(1890-1966)の住居兼アトリエを基とした私設美術館。2023年に開館50周年を迎えます。
  • オランダ・東インド会社による陶磁器の貿易
  • セバスチャン・エラール
    第44話『エラール・ピアノの歴史♪』をご参照ください。
  • フランス革命期のベルサイユ襲撃事件
  • パリ・ルーブル美術館の歴史
  • fermata(フェルマータ)
    音楽用語で「音や休符を長く伸ばす」の意。
  • Très doux
    フランス語で「とても優しく」の意。ラヴェルのピアノ独奏曲『水の戯れ』の冒頭に記されています。