第51話『京の八ツ橋♪』
 
  パリ・サロンデビューをめざして、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』※1を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。英仏海峡を臨む港町、ル・アーヴルにて、鍵一は楽器製作者のエラール氏と再会する。幻の名曲『夢の浮橋』の復活上演をめざして、ふたりは協力することを誓った。2020年の京都へワープした鍵一は、駅構内のピアノで即興演奏を披露する。山深き貴船※2の叔父の家に到着すると、日はすっかり暮れていた。
「それにしても、どうして作曲なんだ」
    と、叔父は火鉢で八ツ橋を炙りはじめた。
    「おまえはB先生の支援を得て、ピアノを勉強するためにパリへ留学したんだろ。なのにどうして、作曲の課題をやらなきゃいけないんだ」
    「ぼくも当初は、作曲に取り組むことになるとは夢にも思っていなかったのですが。B先生のすすめで、パリへワ……」
    「わ?」
    「……ワキが甘かったです」
    苦し紛れに鍵一は煎茶をすすって、「ツメが甘かったです」と言い直して、それも違う気がして首をひねった。
    「なにが甘かったッて」
    「考えが甘かったのです。……パリではピアノが弾けるだけではだめなんです。いくら楽器の演奏が巧くても、作曲ができないと、音楽家とは認めてもらえません」
    「そもそも、おまえはそんなにピアノが巧いのか?」
    「そういうわけではありませんが」
    叔父が熱燗をすするのを、鍵一は初めて羨ましく思った。こういう話題にこそ、お酒がふさわしいのかもしれなかった。19世紀パリの音楽家たちが飲んでいた『彗星年のシャンパーニュ』の煌めきが、殊更に恋しい。
    「パリでは『音楽家』の定義が違うのです。音楽家というのは、楽器が弾けるだけではなく、作曲をするものです。なによりまず、弁論家であるべきで……自分の音楽言語を持って、説得力を持って音楽で語れる必要があります。だからぼくも、ピアノの勉強と並行して、作曲を勉強しなければなりません」
    「ふうん」
    叔父は茶碗に八ツ橋をいくつか放り入れた。炙られて温みのついた京菓子の、ニッキの香りが耳に付く。

「つまり、向こうの音楽教育は、日本とは違ったッてことか。パリではどんな先生に教わったんだ」
    「あの、フランツ・リストさん……のような人とか。リストさんのお友達の、ヒラーさんや、アルカンさん……」
    鍵一は耳たぶを掻いた。どうにも昔から、叔父と話していると叔父のリズムに乗せられがちなのだった。さらに、叔父の繰り出す変則的なハーモニーにつられると、我知らずとんでもないメロディを弾きかねない。
    「いろんな方です」
    「パリ音楽院の?」
    「……みなさん、親切にして下さいましたが、コンサートホールや楽屋には連れて行ってもらえませんでした。ましてや、サロン・デビューは夢のまた夢で」
    「サロン?」
    「パリの上流階級の方、もしくは名のある芸術家の方が主催する、社交の場です。フランツ・リストさん……のような先生いわく、名声を獲得するための登竜門、パリの社交界へ通じる扉、とも言うべき場だそうで。そこで自作の曲を弾いて、出来がよければ、音楽家と認めてもらえるそうです」
    「へえ、まるで19世紀みたいだなア。花の都パリでは、まだそういう場が生きてるのか」
    もはや何も言うまいと、鍵一は八ツ橋を口に押し込んだ。叔父は愉快そうに笑いながら、八ツ橋を肴に熱燗をすすった。
    「ということは、おまえは作曲もできるピアニストになるのか。B先生みたいに。やっぱり、師匠と弟子は似るもんだな」
    曖昧にうなづきかけて、鍵一は目をみはった。口のなかで古都の雅が砕けた。
    (作曲もできるピアニストになる……このぼくが、19世紀の音楽家のように……!)
♪リスト作曲 :ピアノ協奏曲 第1番 第1楽章 S.124/R.455 H4
師よりもむしろ、19世紀の音色の記憶が強烈に響いた。この叔父(万事において捌けた中年のアンティーク・ディーラー、または京都人、かつ画家。親族内コードネーム『てんぐちゃん』)によって、はからずも鍵一の進路はハッキリと言語化されたのだった。
    「ええ、そうです」
    つとめて
    freddamente
    ※3に、鍵一はうなづいた。
    「ぼくはピアニスト・兼・作曲家になります。春にはパリに戻って、またサロン・デビューをめざします。京都で創ろうとしている『夢の浮橋変奏曲』は、そのための第一歩なのです……」
    「そうか、そうか。ところで」
    叔父は何か言い掛けて、ふいに口をつぐんだ。お猪口を置いて、甥ッ子の顔をつくづくと眺める。面食らって鍵一は、叔父の表情をおそるおそる窺った。美術品の鑑定をするような、ふしぎな目付きで叔父は鍵一を点検したのち、ヒョッと眉を上げた。いつもの陽気な叔父に戻っていた。
    「……結構な事だ。じゃア、早く名曲を創って、ハワイと熱海とロサンゼルスに別荘を建てて、サグラダ・ファミリアを完成させて※4、タイムマシンを発明して、温泉を掘って、46億年前の太陽系の謎を解いて、叔父さんに楽をさせてくれよな。ヘヘヘヘ。さあ、もう寝ろ」

つづく


日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪
第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、鍵一が作曲するピアノ独奏曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。
実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいます。
♪『夢の浮橋変奏曲』制作プロジェクトのご紹介
♪神山 奈々さん(作曲家)
♪片山 柊さん(ピアニスト)
音楽用語で『冷静に』の意。
スペイン・バルセロナのカトリック教会。建築家アントニ・ガウディの設計に基づき、今なお建設中。