ピティナ調査・研究

第42話『春の海♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
18歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19世紀パリへとワープする。悩み、恥じ、スッ転びながらも、芸術家たちとの交流は大きな収穫となる。
パリ・サロンデビューをめざして、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』※1を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。英仏海峡を臨む港町、ル・アーヴルにて、鍵一は楽器製作者のエラール氏と再会する。幻の名曲『夢の浮橋』の謎を追い続けてきたエラール氏は、その秘密を鍵一に話して聞かせるのだった……!
春の海♪

「エラールさん。ぼくは自分が『時の旅人』なのかどうか……幻の名曲『夢の浮橋』の復活を担う人間なのかどうか、まだわからないのです。ぼくをこの旅へ送り出して下さった師匠のB先生は、なにかご存じなのかもしれませんが……」
潮騒に語尾が重なる。テーブルの上のレモンに、午後の淡い光が宿っている。鍵一はエラール氏の青い瞳をまっすぐに見た。
「でも、ぼくも『夢の浮橋』に強く心惹かれています。この淡く儚い橋の先に、自分の進むべき道があるという気がするのです。それに、チェルニー先生から楽譜の一部を頂いたからには、ぼくも『夢の浮橋』の継承者です。
話して下さいますか、『夢の浮橋』にまつわるエラール社の秘密を……!」
エラール氏は微笑を含んでうなづくと、鍵一を促して食事を続けた。
「まず、『夢の浮橋』について私が知り得たことを話そう。叔父のセバスチャンから聞いた話をもとに、私が自分の手で調査した内容だ。
『夢の浮橋』が、古来より音楽家たちに受け継がれてきた長大な秘曲であることは、きみも知っているね」
「はい、チェルニー先生から伺いました※2。チェルニー先生はかつて、楽譜をベートーヴェン先生から引き継がれたそうです。総譜はまるで天の川のように長大なので、チェルニー先生含め、複数の音楽家で楽譜を分け持っていらっしゃると。他にどなたが楽譜を持っていらっしゃるのか、そこまでは教えていただけませんでした」
「かつて私もチェルニー氏に尋ねてみたことがあるが、答えは得られなかった。秘曲を護る者としては当然の行いだろう。
だからこそ、『時の旅人』の役割が重要なのだ。『時の旅人』は、この世に散り散りになった『夢の浮橋』の楽譜を集め、楽団を組織して、大彗星の降る夜に曲を上演する」
「でもエラールさん、なぜ上演後に楽譜が散り散りになるのでしょうか?後世に受け継ぐことが前提の曲なら、楽譜をひとまとめにして、師匠から弟子へ渡して行ったほうが良い、ですよね……?」
「まさにそこが、『夢の浮橋』の面白くも難しいところだ」
エラール氏がナイフで牡蠣の身を切り分けるたびに、貝殻の内側が月のように白く表れて輝いた。鍵一はチェルニー氏が真珠貝のペーパーナイフで楽譜を切り分けてくれた時の緊張を、ありありと思い出した。
(チェルニー先生はご自身を『橋守』※3だと仰っていた。
『私はこの曲の煌めきを少しずつ掬い取っては、若い音楽家たちに渡しているのだよ。多くの音楽家がこの曲を後世に受け継いでくれるよう願いながら。』と……) 

「『夢の浮橋』の楽譜の継承にはルールがあるのだよ。楽譜の冒頭に明確に記されているそうだ。いわく、楽譜を受け取った者は、楽譜を密かに後世へ受け継ぐこと。上演後は楽譜をばらばらにし、演奏者全員で分け持つこと。
さらに興味深いのは、継承の仕方についてだ。ルールでは、楽譜を誰に渡すかも、その方法も、楽譜を所持する者に委ねられている。
さて、ケンイチ君。きみなら誰に、どのようにして、『夢の浮橋』の楽譜を継承するかね?」
「ええと……そうですね、やはり演奏技術の優れた音楽家に渡したいと思います。全曲を上演するとなると、きっと長大で難易度の高い曲でしょうから。それに、必ず後世へ受け継ぐ、というルールをきちんと守ってくれるような、人格の優れた音楽家……『ヴィルトゥオーゾ』と称されるような人に※4
19世紀の旅で出会った音楽家たちの顔が次々と浮かんで、鍵一はモゾモゾとひざこぞうを掻いた。
「ぼくの出会った中で最も優れた、信頼のおける若い音楽家に、楽譜を渡したいと思います。耐久性のある上質紙に、上等の濃いペンで清書をして、きちんと体裁を整えたものを渡します。楽譜の末尾にはレポートを添付します。ぼくが知り得た『夢の浮橋』の情報を、すべて記したレポートです」
「見事な継承の仕方だ。ただし、きみから楽譜を受け取った者が演奏を担うとは限らんがね」
「あッ、確かに……!もし『時の旅人』が、楽譜を集約できなければ……もし楽譜が集まったとしても、大彗星の飛来周期に合わせて上演できなければ。演奏しないまま次世代に楽譜を渡す、ということも、有り得ますね……!」
「大いに有り得ることだ。しかも現代の天文学では、大彗星の飛来周期を正確に予測することは難しい」
「生きているうちに大彗星が飛来するとは限りませんしね……でも、そうだ、ハレー彗星ならどうでしょう?あれは確か、数十年ごとに地球に近づく、大きな彗星ですよね?」※5
エラール氏はワイングラスを置くと、「リスト君の言うとおりだな」と微笑した。
「リストさんが……どうかされましたか」
「『演奏技術はいまひとつ。指の訓練の跡は見て取れるが、音楽的センスもいまひとつ。気が弱い。自信が無い。開拓精神に欠ける。他人の発言にすぐ左右される。
しかし、賢い手と柔らかな耳を持っている。なにより、思わぬところで博識を発揮し、『外国人クラブ』の面々が驚かされることしばしば。ゆえに、きみに対し色々な事を語りたくなる。』
彼がきみについて言っていた事だ」
(賢い手と、柔らかな耳……)
気恥ずかしいのを、鍵一は海老のしっぽと一緒に呑みこんだ。エラール氏はギャルソンに追加の注文を伝えて、彗星の話題に戻った。
「確かにエドモンド・ハレー氏の名を冠した彗星は、独自の軌道を描いて、約75年ごとに空へ巡って来る。3年前の秋に私も観た」
「えッ、ハレー彗星をご覧になったのですか」
「私が興味を持っていたのは、『夢の浮橋』にまつわる伝承のほうだがね。『大彗星の降る夜に、幻の名曲が奏でられる』という出来事が本当に起こるかどうか、ヨーロッパ中の友人に頼んで密かに見張っていたのだ。私自身はパリに居た。
いかにも天文学者の予言どおりに彗星は現れた。
1835年8月、ローマ大学天文台がハレー彗星を観測できたと報じた。光の塊が長く尾を引いて空を渡ってゆく様子が、翌年の1836年5月まで観られた。ウィーン、ロンドン、ハンブルグ……ヨーロッパ各地から友人たちが手紙をくれた。彼らの報告は申し合わせたように同じだった。
『貴殿もパリでご覧になったとおり、まるで空に光の橋が架かったような、幻想的で美しい彗星でした。しかし、音楽家たちが楽団を組織し、星に向かって曲を奏でるといった事象は観測できませんでした』と。私自身もパリでは何の情報も得られなかった」
「1835年には、『夢の浮橋』の上演は行われなかったのでしょうか」
「私はそう確信している。少なくとも、彗星は葡萄の恵みを大地へ与えなかったのでね。……もし、秘密裏に上演されていたとすれば」
そこへギャルソンがスパークリング・ワインを注ぎに来た。フルートグラスの底からみるみるうちに金色の泡が立ち上る。
「ハレー彗星は聴く耳をもたなかったのだろう」
「彗星に耳があるのでしょうか」
「尾があるものには耳もあるだろう」
フェルマータがギャルソンの脚にじゃれついてそのまま、厨房のほうへ小走りに付いて行った。エラール氏の取り上げたグラスに陽の光が透けて、黄金色の葡萄酒は星をちりばめたように輝いている。
(そういえばお父さんも、あの年は彗星に夢中だった)
ふと鍵一は懐かしく思い起こした。ハレー彗星よりさらに巨大な彗星が200年ぶりに地球に接近するため、肉眼でも世界中で観測できると話題になった2012年である。
そのとき鍵一はリビングのテーブルで中学受験用の問題集に苦戦していた。三角定規をいじくりまわしながら『ピタゴラス※6って恐竜の名前みたいだ』と思っていた。京都大学のiPS細胞研究所長にノーベル賞が贈られた※7というニュースが終わり、画面が切り替わった。アナウンサーが『いよいよ今夜は、大彗星が関東上空に飛来します』と声を高めた瞬間、寝転がっていた父がパッと起き上がり、『おいでなすったな!』と江戸ッ子のように片膝をついて、食い入るようにテレビを見ていた。横浜近辺で観測に適した場所をメモしたり、新調した天体望遠鏡のレンズを何度も拭いたり、鍵一の傍へ来て『父のためにキラキラ星変奏曲を弾いてくれよ』と所望したりした。
『ハシャぎすぎですよ』と母に釘を刺されると、
『だって、次にあいつが顔を見せるのは200年後なんだもん』
と、父は親友との別れを惜しむように抗弁していた。……
「楽譜の継承の話に戻るが」
「はい」
鍵一は背筋をのばして、ふたたびエラール氏の話に耳を傾けた。
「先ほどきみの言ったような、きちんとした仕方で楽譜が受け継がれてゆくなら、『夢の浮橋』の上演はもっと頻繁になされているだろう。パリ音楽院のヅィメルマン教授あたりが取りまとめて、1835年の彗星飛来時に上演していそうなものだ。しかし彼も楽譜の在処について、心当たりはないと言っていた」
「エラールさんからヅィメルマン教授へ、直接尋ねられたのですね」
「『あくまでも伝説の類なのだから、夢のままにしておくのがよかろう』
と、あっさりかわされたよ。復活上演を望む私としては、なんとも歯がゆい事だ。『神殿』と称されるヅィメルマン家のサロン※8に『夢の浮橋』のテーマを架ければ、ヨーロッパ中から『夢の浮橋』を携えた音楽家が集まるだろうと踏んでいたが。当の主催者が乗り気でなければ仕様がない」
「あの、ショパンさんとは、お話しされたことがありますか?『夢の浮橋』について……」
やや緊張しながら鍵一は尋ねた。エラール氏はゆっくりとまばたきをした。

「もちろん尋ねてみた。しかしショパン君も、楽譜の行方は知らないという返事だった。そういった古い秘曲が存在するという話を耳にしたことはあるが、詳しいことは分からない、という。ただし興味はある、上演機会があるのであれば、演奏者として参加してみたい……とは言っていたな」
「そう……ですか」
(ショパンさんからヅィメルマン教授へ話していただければ、教授もきっと『夢の浮橋』に興味を持って下さる。あのスクワール・ドルレアン※9に『夢の浮橋』の楽譜が集まり、あちこちから奏でる音が聴こえてくる……ぼくはオリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』を携えて、堂々とヅィメルマン教授のサロンを訪れることができる……!)
にわかに輪郭の濃くなったそのアイディアを、鍵一は胸の内に仕舞っておくことにした。アイディアの実現のためには、鍵一がフレデリック・ショパンとふたたび対話をする必要があった。対話の機会を持つためには、まず『夢の浮橋変奏曲』を書き上げる必要があるのだった。
「楽譜の継承の話に戻りますが」
と、今度は鍵一から切り出した、
「書物の形にして信頼できる音楽家に渡す、という継承の仕方を、エラールさんは『きちんとした仕方』と仰いましたが……ほかに継承の仕方があるものでしょうか?」
「ある音楽家は、楽譜をワイン・ボトルに詰めて海に流した」
ゆったりと潮騒が届いて来る。
鯨の横切る白波に巻かれ、波間に浮かび、雲の影を映しながら、ワイン・ボトルは春の海の暖かな流れに乗って、彼方の砂浜に流れ着く。網を引きに来た漁師が驚いて、その奇妙なかたちをした、美しいガラス瓶を拾い上げる。コルクの栓を抜くと、ほのかな葡萄の薫りとともに出て来る巻紙。陽の元にひらいてみれば、謎の呪文がみっしりと書かれている。漁師は村の長老の家へ駆けつける。長老は高台の神社へ急ぐ。いささか心得のある神主は、巻紙に風を通して桐箱に入れ、舶来品らしいガラス瓶とともに、海の神へ供え、祝詞を捧げる。
鍵をかけて仕舞われたそれら宝物は、毎年元旦の船祭にひらかれる。神主が祓い清め、楽人により風雅に解釈された呪文は、当地の楽器でうやうやしく奏される。神楽の舞の袖には青海波の紋様が波打ち、その波型の模様は無限に青く連続する。舞われるにつれ空の青も溶け入り、周波数は虹色の巨大なスラー※10を描くとだんだんに凪いでまた、1839年のル・アーヴルの元旦にたゆとうた……
図らずもエラール氏と同時に深くうなづいて、鍵一はこの楽器製作者と波長がぴたり合ったことを感じた。

♪宮城道雄 作曲:春の海

「叔父のセバスチャンいわく、前回の上演に参加した音楽家たちは楽譜を分け持ち、それぞれの仕方で後世へ受け継いだという事だ」
「文字通り、世界中に『夢の浮橋』の楽譜は散らばっているのですね……!」
「私なぞ、ロンドンの大英博物館でロゼッタ・ストーン※11を見るたびに、岩盤の欠損部分に『夢の浮橋』の楽譜が彫られていたのではないかと空想する。ナポレオン軍の中に音楽の心得のある者がいて、イギリスに渡す前に楽譜部分だけを削り取ったのではないか、などと。
あるいはパリのルーヴル美術館を訪れるたびに、『モナ・リザ』※12の前で想像をめぐらせる。レオナルド・ダ・ヴィンチが、あの女性の謎めいた微笑の裏に、『夢の浮橋』の楽譜を塗りこめたのではないか……と」
「『万能人』こと、レオナルド・ダ・ヴィンチは、たしか楽器も弾けましたね」
「リラ(竪琴)の名手であったようだ」
エラール氏は楽しげに空の青を見遣って、しかしその目尻の皺はすぐ苦笑に変わった。
「さて、想像は尽きないが……頭の痛い事態だ」
「たしかに、『時の旅人』の役割は重要ですね」
「そう、私の考えでは……『時の旅人』は地上を自在に移動することができる。辺境の地まで赴いて、楽譜を集める役割を担う。おそらく、船や馬車ではない移動手段を持っているはずだ。そんな芸当ができるのは天界からきた人間か、冥界からよみがえってきた人間くらいだろう」
曖昧にうなづきながら、鍵一の中にいま、ひとつの揺るぎない確信が湧き出していた。
(地上を自在に移動しながら、世界中に散らばった幻の名曲『夢の浮橋』の楽譜を集める存在、『時の旅人』……まさに、それはぼくのことじゃないか?音楽史を携え、鍵盤ハーモニカを吹いてワープができる……音楽記号の詰まった福袋も、『夢の浮橋』の楽譜収集に関係する道具なのかもしれない……!)

つづく

◆ おまけ
  • 音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』がオーディオドラマになりました。 日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪
    第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
  • オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』
    19世紀の音楽家・チェルニー氏から贈られたモチーフを活かし、鍵一が作曲するオリジナル曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。
    実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいます。オーディオドラマやコンサート等でお聴きいただけるよう、現在準備中です。
    神山 奈々さん(作曲家)
    片山 柊さん(ピアニスト)
  • 鍵一がチェルニー先生から『夢の浮橋』の楽譜の一節を贈られたエピソード
    第15話『橋守♪』をご参照ください。
  • 橋守
    橋の守護職。古くは『古今和歌集』収録の和歌にも詠まれました。
  • ヴィルトゥオーゾ
    優れた才能とセンスを持ち、皆のお手本となるような振る舞いのできる音楽家。徳の高い音楽家。
    解釈は上田泰史著『パリのサロンと音楽家たち -19世紀の社交界への誘い-』に拠ります。
  • ハレー彗星
    76年の周期で太陽の周りを公転している短期的彗星。イギリスの天文学者エドモンド・ハレーがこの彗星の周期を発見し、1705年に研究成果を発表しました。次回地球に接近するのは、2061年とされています。
  • ピタゴラス
    古代ギリシアの哲学者。『三平方の定理(ピタゴラスの定理)』は古くから有名です。しかし現代では、ピタゴラスが『三平方の定理』を発見したという説は、専門家から疑問視されています。
  • 京都大学のiPS細胞研究所長にノーベル賞が贈られたニュース
    2012年、京都大学のiPS細胞研究所長 山中伸弥氏と、ジョン・ガードン卿にノーベル生理学・医学賞が授与されました。
  • ヅィメルマン家のサロン
    パリ音楽院のピアノ科教授であったヅィメルマン氏の自宅では、1833年頃から約20年間、定期的に音楽サロンが開かれていました。『神殿』と称されたヅィメルマン家のサロンには芸術を愛する人々が集い、音楽雑誌の記者がその様子を報じるなど、音楽業界で重要な位置付けにありました。
  • スクワール・ドルレアン
    イギリスの建築家エドワード・クレシーが1830年~1832年に建設した、スクエア型の集合住宅。時を同じくして、オルレアン家のルイ=フィリップが国王となった事から、王家の名を取って、『スクワール・ドルレアン』と呼ばれるように。ショセ=ダンタン地区の中央に位置し、多くの芸術家や資産家が居住しました。
  • スラー
    2個以上の音符の上あるいは下に記される弧線。音の間をなめらかに繋げて演奏することを示す音楽記号。
  • ロゼッタ・ストーン
    1799年、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征時に、湾岸都市ロゼッタにて発見されました。
    紀元前196年のエジプト王の勅令が刻まれたこの石板は、1802年より、ロンドンの大英博物館が所蔵しています。
  • レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』