ピティナ調査・研究

第37話『花の眼、水の歌―アルカン氏の肖像(Ⅲ)♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
18歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19世紀パリへとワープする。悩み、恥じ、スッ転びながらも、芸術家たちとの交流は大きな収穫となる。
パリ・サロンデビューをめざしてオリジナル曲を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。ル・アーヴル港ゆきの船内にて、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』※1の構想は着々と進む。変奏曲の1つ、『アルカン氏の肖像』の構想を練りながら、鍵一は『フランス・ピアノ界のエトワール』こと、アルカン・シャルル=ヴァランタン氏について回想する。
花の眼、水の歌―アルカン氏の肖像(Ⅲ)♪

――回想 アルカン・シャルル=ヴァランタン氏の肖像(1838年6月)

なお足早に歩きつつ、鍵一はアルカン氏へ『夢の浮橋』について尋ねるタイミングを計っていた。この、流れる水のようにつかみどころのない、めまぐるしく色彩の変化する紫陽花色の瞳の、しかもショパンと親交の深い音楽家に『夢の浮橋』について尋ねることは、今や必須のように思われた。
そもそも、ワープ初日にショパンから贈られた、
『夢の浮橋(Le pont du rêve)』
というフレーズの謎を、鍵一は19世紀の旅の間にぜひ解き明かすつもりでいた。※2
(あのショパンさんが手ずから五線紙に書きつけて、ぼくに下さったんだ。1838年のパリにワープして来た、なによりの勲章。ふしぎな宝物。美しい謎……!
きっと、パリに実在する橋なんだ、『手袋の秘密について話す気になったら、この場所へ来たまえ』と仰ったからには。どの橋かさえ分かれば、またショパンさんに会える)
期待をこめて、鍵一は戸棚の奥にほんのりと光る謎を思い浮かべた。……『ピアノの詩人』の筆圧があまりに弱く、かつ19世紀の、黒鉛と粘土を混ぜ合わせた鉛筆の芯※3があまりに脆いために、五線紙に書かれた文字は数日で薄れてしまった。鍵一は急いでそれを自室の戸棚に仕舞い込み、儚い橋をこの世に引き留めたのだった。

(19世紀の音楽家の自筆譜が消失したり、そもそも自筆かどうか不明だったりするのは、筆記具にも原因があるのかな。みなさん、鉛筆でもペンでも楽譜を書いていらっしゃるけれど、どちらも年月が経てば筆跡は淡くなってしまう……
たしか、ショパンさん作曲のノクターン第14番※4の自筆譜は今でも発見されていない。ピアノ協奏曲第1番のオーケストラ・パートに至っては、他人に書かれた説が濃厚なんだよね)※5
天を仰ぐといま、1838年6月のパリは物言いたげな雲に厚く覆われて、しかし行く手の凱旋門の上空にはうっすらと明るい兆しも見えていた。振り向けば先ほど通り抜けてきたショセ=ダンタン地区の北、モンマルトルの丘は黒ずんで、やはり雨の気配が粘ついている。
(有名なサクレクール寺院は、1838年にはまだ建設されていないんだな……)※6
未来の白亜のドームをぼんやりと心に描いていると、
「ケンイチ君……だっけ。名前」
ふいに音楽家がふりむいた。紫陽花色の瞳にまっすぐ射られて、鍵一のフランス語がスッ転んだ。
「いいえ、はいッ、鍵一です。鍵盤楽器のケンに、一番星のイチという意味で」
「きみはどうしてもワインを飲まないね。以前リスト君らとテーブルを囲んだときも、断固として飲まなかった。『外国人クラブ』のレストランで時々きみを見かけるけれど、やっぱり飲まない」
3拍ほどの間を置いて、鍵一は驚いた。相手が自分へ無関心だとばかり思っていた。もし関心を持たれたとして、まさか葡萄酒の話題からすべり込めるとは思っていなかった。

「そ、そうですね。日本の法律上、あと2年は飲めません」
「ヨーロッパに来てワインを飲まないなんて。漁師の網に掛かって命拾いするオフィーリアみたいだな」
音楽家は呟くと、行き交う馬車をすいすいと避けながら、靴も汚さず、ほとんど立ち止まることもなく、legato※7にシャン=ゼリゼ大通りを渡ってゆく。鍵一はアルカン氏の後にくっついて、19世紀パリに来て初めて、この大通りをスムーズに渡り切った。セーヌ川へ続く道を下りながら、「あの、オフィーリアというのは?」息せき切って言い掛けた鍵一を、音楽家は横目で見た。
「滑稽で興ざめだということだよ」
「たしか、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』に登場する、柳の樹から落ちて溺死してしまったヒロイン……ですよね。あッ、そういえば」
「何」
「レストランで夕食をご一緒させていただいたとき、みなさん1811年製のスパークリングワインを飲んでいらっしゃいましたね。たしか『大彗星のヴィンテージ』……やっぱり、特別に美味しいものですか」
「それを知ったとてどうするの」
「2年後には、ぼくも飲めるようになりますから。そのころにはサロン・デビューが出来ていると良いのですが」
「きみは本気でサロン・デビューを目指してるんだっけ」
「はいッ、サロンにて、たくさんの芸術家の方々とお近づきになれればと思います」
「もしサロン・デビューが出来たとして、それから?」
「それから……日本に帰って、音楽の勉強を続けたいと思います。師匠のB先生の音楽研究を手伝いながら」
「それから?」
「それから、ええと……」
進路は白紙だった。ただ、19世紀での情報収集のミッションを終えたら大学にはゆかねばなるまいと、以前から漠然と思っていた。
(でも、進学する意義ってなんだろう。ぼくは音楽について、何を学びたいんだろう……?)
「ねえ、それから?」
音楽家に催促されて、鍵一は焦った。……ふと、パリ音楽院を思い出した。鍵一が唯一優勝したコンクールのプライズとして、優勝後3年以内であれば、海外留学の支援を受けられるはずだった。
「パリ音楽院のピアノ科に入学するかもしれません」
一息に言ってしまった。アルカン氏は薄く笑った。
「そのころには僕が、ヅィメルマン教授のポストを継いでいるかもね」※8
「計らって下さいますか」
「それとこれとは別」
話しながら、21世紀と19世紀が交差するような感覚にムズムズする。折しも道は三叉路にさしかかり、アルカン氏は静かな道をえらんで、セーヌ川のほうへ歩を進めた。
「アルカンさんは、パリ音楽院にずっとお勤めですよね」
「そんなこと言ったっけ、僕」
「『パリ音楽院の勤めよりも、外国人クラブの集まりのほうが落ち着く』と、レストランで伺ったような」
「一昨年まではパリ音楽院でソルフェージュのクラスを受け持っていたけど、今はそうじゃない」
「お忙しいですか」
「少なくともきみよりは」
「普段はどんな活動をなさっているのですか」
「作曲、演奏会の企画、楽譜出版の打ち合わせ……いちおう生徒を受け持っているから、週に何度かは作曲とピアノの個人レッスン」
「サロンへは……?」
「もちろん、招待を受ければ。オペラのシーズンなら、劇場へ出掛けることも多い」
「パリ社交界というところですか……!」
「パリに住んでいる以上、社交生活というものは水と同等に大切だからね。日々くちびるを潤し、時には浴びねばならない」
「お忙しいですね」
「パリでそこそこ名の知れた音楽家なら皆やっていることさ。ショパン君などは貴族の方々へのレッスンをよく受け持っているから、僕よりもっと多忙。彼の生来の品の良さと才覚とが1回につき20フランのレッスン料に変わり、またそれが彼の白絹の手袋代や馬車の維持費に変貌してゆくのは、見ていておもしろいね」※9
「アルカンさんの作曲の個人レッスンは、1回につきおいくらなのですか」
「……きみの師匠は、作曲は教えてくれなかったの」
「子どもの頃、遊びながら基礎だけは……その、小説の読書感想文を曲で表したり。でも、曲といえるほどのものではないです、あくまで遊びで」
「文学と音楽を響き合わせる創作か。どんな小説?」
「ヨーロッパではまだ知られていない、日本の小説です」
「日本のどんな小説?」
「『吾輩は猫である』という、その、猫が語り手をつとめる名作で」
「作者は誰?」
「ヨーロッパではまだ知られていない、日本の作家です」
「何という名前の作家?」
「少なくともシェイクスピアやゲーテではないです。すみません、あの、鎖国中の日本政府の方針で、国外への輸出が禁じられている小説でして、内容も日本の重大な秘密に関わるものですので、あまり詳しくは言えません」
冷汗をかきながら鍵一が打ち返すと、この音楽家はぐるりと思考を巡らせて、「きみの師匠は何者なのかな」呟いてすぐさま、
「きみの師匠は何者なの?」
と質問に替えた。
『21世紀の楽聖』です、と言いたいのを鍵一はグッと呑みこんで、この音楽家を納得させる答えを大急ぎで考えた、
「ぼくの師匠はピアニストであり、作曲家でもあります。日本のベートーヴェン……通称『B先生』という御方です。音楽のみならず、文学や哲学や自然科学や、さまざまなジャンルに豊かな知見をお持ちで」
「独学で?」
「音楽については、独学だったと伺っています。ヨーロッパから持ち込まれた数少ない楽譜や資料を読み解きながら、若き日のB先生がピアノと作曲を手探りで開拓していったと、そういうお話を聞いたことがあります」
「ホウ」
「ピアノの練習と並行して、音楽以外のジャンルへ興味を持つようにというのが、B先生の教育方針でした。『読書感想文を曲で表す』というレッスンは、その方針から来ています」
「……日本のヴィルトゥオーゾか。いつか会ってみたい」
表情を変えないアルカン氏の、その脳裏にしっかりとB氏の印象が刻まれたのを鍵一は見て取った。同時に、嘘を付かずに師匠を紹介できたことにホッとした。
「でも、ピアノも作曲も、今はもうB先生に教わることはできないのです。音楽の研究に注力なさるために、先生は個人レッスンも教職もお辞めになりましたから」
「賢明な判断だと思う。人生は有限だから」
「できればピアノと作曲を、このパリで、どなたかに教わりたいのですが……特に作曲については、いちから教わる必要があります」
一縷の望みを以て鍵一が切り出すと、音楽家はきわめて上品な仕方で鼻をならした。
「世の中の大人が皆、きみに対して親切に何かを教えてくれるものだとは思わないほうがいいよ。このパリでは誰も彼もが、きみに構っていられるほど暇じゃないのだから」
「はい……」
「ヒラー君も、きみを弟子にする気はないだろうし。彼には他にやるべき事がある。芸術大国ドイツの未来を背負っている」
「リストさんのことは、師匠と思ってよいのでしょうか」
「思うだけならきみの勝手だ。ただし、きみが不用意に『フランツ・リストの弟子』と名乗って彼の顔に泥を塗ることにならないか、それが気懸り」
「そうならないよう努力します」
「作曲、作曲というけれど。なにか創りたい曲があるの。コンセプトとかモチーフとか」
「いいえ、まだ何もアイディアは……。あの、サロン・デビューするには、オリジナル曲を持っていないといけない……んですよね?」
「語りたいことが何もないなら、無理に書く必要はない。誰もきみに書いてくれとは頼んでいないのだし」
「いずれはオリジナル曲を書こうと思います。曲を書けば、それを持って芸術家のみなさまの集まりに行けるかもしれませんから」
「社交のためだけに曲を書くというなら、それも良いだろうね。それに徹することができれば立派だ」
「ではアルカンさん、ぼくに作曲を教えて下さいますか?」
「古典の巨匠に学べばいいでしょ。ハイドンとか」
と、ここまで話して来て、このパリ生まれパリ育ちのヴィルトゥオーゾが、会話すること自体はきらいではないらしい……と鍵一は気づいていた。
(この機会にいろいろ伺ってみよう……!答えが返ってくるかどうかはさておき)
鍵一は相手の様子を見ながら、前のめりに質問を投げてみることにした。

つづく

◆ おまけ

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