ピティナ調査・研究

第27話『惑星の庭(Ⅱ)♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19世紀パリへとワープする。様々な困難にぶつかりながらも、鍵一は19世紀の人々の生き様から多くを学ぶ。サロン・デビュー修業の一環として『夢の浮橋 変奏曲』の作曲に取り組む事となった鍵一は、自らの課題と向き合うため、ひとり船旅に出た。ル・アーヴル港ゆきの船※1は、おだやかにセーヌ川を下ってゆく。船内にて、オペラ座のドアマン(=『名無しの詩人』)と再会した鍵一は、そのパリ奮闘記に耳を傾けるのだった。
惑星の庭(Ⅱ)♪

「それから出版社めぐりを始めた」
「原稿の持ち込みですね?」
「そう、なけなしの金をはたいて、貸本屋で住所録を借りてさ。星の数ほどあるパリの出版社、雑誌社、新聞社の住所を、片ッ端から訪ねてみることにした。ところが……幻滅、幻滅の連続!」
「全滅……ですか?」
「全滅であり幻滅だよ。とかく僕の思い描いた文学の道の理想と現実は、天と地ほどの差があった。僕の詩集はまったく評価を得ることができない。そればかりか、おぞましい出版業界のウラ側を見る羽目になったよ」
それから『名無しの詩人』の語って聞かせたパリ出版業界のウラ話は、鍵一の仰天に値するものではあった。
いわく、さる出版社は若手作家から作品を安く買い叩いたのち、出版権をそっくりそのまま、倍以上の高値で別の出版社へ転売している。いわく、さる雑誌社は無名の新人作家の作品をひとつだけ、ごく少ない部数で出版してやるかわりに専属のライター契約を結ばせ、安月給で一生飼い殺しにする。いわく、さる古本屋は、人気作家の作品を大量に仕入れるために印刷業者と手を組み、わざと粗悪な紙で刷ったり、新刊に煤をかけたりなどして古本のように見せかけ、悪銭を稼いでいる……等々。
「そうこうしているうち、手持ちの金が尽きてくる」
『名無しの詩人』の苦笑いするのが、鍵一には他人事ではなかった。
(ワープ初日にリストさんに拾ってもらったのが、ぼくは本当に幸運だった……!)
「なにせ、例の出版社から、給料をもらわずに飛び出しちゃったもんだから。腹が減っては詩作ができぬ、さ ※2。しょうがなく、『パリの職業見本市』として、あらゆる仕事で日銭を稼いだんだけど。※3 なかでも石炭の荷揚げ屋なんてのはね、きみ……どんなに生活に困ったッて、よしたほうがいいぜ」
(19世紀ならではの職業! たしかモネの絵画で、それらしきものを見た事があるような)※4
「重要なお仕事だと思いますが……しんどそうですね」
「もうね、きつい、汚い、危険の三重苦。頭のてっぺんからつまさきまで煤で真ッ黒になるし、石炭の箱は超絶重いし、おまけに作業場が船着き場でしょ。川風の吹きッさらしで寒いのなんの。ちょっとバランスを崩せばセーヌ川へドボンよ。雨で増水しているときなんかは、濁流に呑まれてそのまま流されちゃうからね。他の仕事よりいくらか賃金は高かったけど、1ヵ月ももたずに辞めちゃった。そのころには、少しばかり貯金も出来ていたし」
産業革命後のちからづよい労働を想像しようとして、しかし鍵一は18年間の人生でいちども、肉体労働をしたことがなかった。鍵一のおぼろげな印象の中で、それは舟歌のたゆたう淡い景色になった。
「あらためて詩集を売り込むにあたり、僕はちょいと策を練った。正攻法で出版業界の門を叩いても、自分の作品をまともに取り扱ってくれるところはなさそうだったから」
「ということは……ウラの手を?」
『名無しの詩人』はいたずらっぽく肩をすくめてみせて、天を仰いだ。いつのまにか雨は上がっていた。薄曇りの空は濃淡を織り交ぜながら、どこまでもつづく農村の風景を覆っていた。遠く山間の上空は煤黒く濁り、いまそのあたりに雨雲が居るらしかった。川上から飛んで来た数羽の鳥たちが、マストで羽をやすめている。帆船はそのまま、暗い森の中へ入って行った。

♪フォーレ作曲 :舟歌 第2番 Op.41 ト長調

「僕はオペラ座に来る紳士淑女の馬車に、そしらぬ顔で自作の詩集を放りこむ……ということをはじめた。手づくりの詩集だよ。なけなしの貯金を削って、できるかぎり質の良い紙を手に入れてさ。屑屋から安く買った女物のハンカチをほどいて、金色の糸で綴じたんだ」
「大胆なことをなさいましたね……!」
「詩人としての生死が懸ってるんだぜ。ここまで来たら、なんだッてやるしかないでしょ。僕が必要としていたのは、金とコネ。その両方を備えた連中が、秋から春にかけてオペラ座に押し寄せるんだ。銀行家、実業家、大地主……いわゆるブルジョワと呼ばれる方々。あるいは、すでに芸術の世界でひとかどの地位を築いて、パリ社交界の構成員であるような方々……それこそ、きみの師匠のフランツ・リストや、博学多才と名高いフェルディナント・ヒラー。貴族のお屋敷を悠々と闊歩するカルクブレンナー※5でもいい。彼らの懐に入れば、僕にも作品を発表する手立てが得られるかもしれないから」
「イタリア座ではなく?」
と、鍵一はかつてジョルジュ・サンドから教わった事を思い出していた。※6
「イタリア座のお客様のほうが、ほんものの社交界には近い気がしますが」
「イタリア座なんてきみ、ハイレベル過ぎて僕には無理だよ。あの上等な言語を流暢にあやつれる方々だけが入館できる場なんだから。イタリア語が話せなきゃ、ドアマンどころか、掃除夫だって雇ってもらえないんだぜ。……きみはできるの、イタリア語?」
「Un poco(少々)」※7
「はん」と鼻から溜息を漏らして、『名無しの詩人』は鍵一の背中をポーンと叩いた。
「フランツ・リストがきみを弟子にした理由は、きっとそういうとこだね」
「弟子じゃないですよ。よく気に掛けて下さいましたが……パリ滞在中の半年間、レッスンというよりは、雑談しながらアドバイスをして下さる感じで」
「世の中では、それを弟子ッていうんだ」
『名無しの詩人』は白い歯をみせて笑うと、ちょうどそのとき二等大部屋から外気を吸いに出てきた物売りから、熱い珈琲をふたつと、砂糖菓子を少々買い求めた。慌てて鍵一が銅貨を出そうとするのを「こう見えて僕、懐は暖かいんだ」と押しとどめて、旨そうに珈琲をすする。
「そういや、きみはいちどもオペラ座へ来なかったね」
「音楽家のみなさまから、お許しが出なかったので」
と、鍵一も珈琲をすすって、熱いものが胃の腑へじんと沁みた。
「オペラ座だけじゃないです、パリの劇場やサロン・ホールに行くのはまだ早いと言われて。せめて楽屋に付いて行きたくて、リストさんやヒラーさんに何度か頼んでみたのですが、とうとうお許しは出ませんでした。
あるとき、ぼくがあんまりしつこく頼んだので、アルカンさんにハッキリ言われた事がありました、
『たとえケンイチ君がいま、オペラ座のボックス席を買い占めるだけの金を持っていたとして……それでも、オペラ座へ行くことはよしたほうがいい。
なぜって、きみはまだ音楽家ですらない。礼儀作法を知らない。貴婦人たちと会話ができない。きみは物笑いの種になり、不本意にもピエロの称号を贈られ、しかるべきデビューのチャンスさえ逃してしまうだろう。鑑賞者としてスマートに振舞えないうちは、パリの如何なる劇場、如何なるサロン・ホールにも行くべきではないんだ。
同様の理由で、リスト君やヒラー君の楽屋に行くのも、今はまだよしたほうがいい。楽屋は、お子さまの社会見学の場ではない。足手まといになるようであれば遠慮してほしい。
きみへのアドバイスは一旦以上だ。なにか反論は?』」
「手厳しいね。さすが、フランスの誇るヴィルトゥオーゾ!」
淡々と諭された時の、身のちぢむような恥ずかしさを鍵一はよく覚えていた。両手でつつみこんだ珈琲カップが温かい。
「やさしさですね、あれは。アルカンさんの」
「でもさ、社交界の礼儀作法だなんて、教わってないんだから知らなくて当然だよねえ。それに、ケンイチ君が音楽家ですらない、ッていうのは、いくらアルカン氏でも言いすぎじゃない?」
「本当のことですから、それは」
砂糖菓子を噛むと、淡い甘さが頬の裏に貼りついた。……鍵一には、19世紀パリ社交界の作法はわからなかった。しかし『音楽家』と認められるために自分に不足しているものは、よくよくわかっていた。
(オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』を自力で作曲すること。その曲を、19世紀のプレイエル・ピアノで弾きこなすこと……)

「それで、作戦はどうでしたか」
「大当たり」
と、『名無しの詩人』は嬉しそうに珈琲カップを掲げてみせた。
「僕が馬車に投げ込んだ詩集を、たまたま、バルザック先生の秘書のレオン・ゴズラン氏※8が見つけてくれて。僕の住所へ手紙をくれた。
『きみはなかなか面白そうな男だ。バルザック先生がぜひ会いたいと仰っているから、よければ遊びに来たまえ』ッていうんだ……天にも昇る気持ちだったよ! そのころ僕はオペラ座をクビになっちゃって、また食うや食わずの生活だったしね。喜んで、憧れの作家のアパルトマンへ訪ねていった。
応接間は殺風景だった。デスクの上には原稿用紙、鉛筆、ドンブリみたいに大きな珈琲カップがふたつ。以上。
秘書のゴズラン氏は陽気で親切な人で。バルザック先生とは仕事仲間であり友人でもあるらしいんだ。緊張で今にもブッ倒れそうな僕を明るく迎え入れてくれて、もうすぐ『セイウチ』が来るから応接間で待てという」
「セイウチ?」
聞き返しながら鍵一は笑ってしまった。語り手も言うなり吹き出して、
「スリッパをペタペタと鳴らして、僕の憧れの作家はやってきた……!」
手でひざをぺたぺたと叩いてみせながら、嬉しそうに話を続けた。
「『セイウチ』先生が応接間へ入って来ると、なんだか蜂蜜のような匂いがした。シャツの襟元をはだけて、珈琲ポットを持って、
『いよう! よく来たね』
と、オペラ歌手のような豊かな声をしていた。笑うとあごの肉がたぷたぷと揺れた。その巨体が腰掛けると、この世の終わりみたいな音をたてて革椅子が軋んだ。僕が呆然と見守っていると、先生はリモージュ焼きの大ぶりなポットに珈琲がなみなみと入っているのを、これまた大きなカップに注いで、僕へ差し出した。
『さて、きみの人生の冒険譚を聴かせてくれるかね?』」
「いよいよ牡蠣の話ですね」
「それが、まだ牡蠣じゃない」

つづく

◆ おまけ
  • ル・アーヴル港ゆきの船
    ル・アーヴルは英仏海峡を臨む港町です。1836年から、蒸気船によるパリ⇔ル・アーヴルの定期運航が始まりました。
  • 腹が減っては……
    もとい、『腹が減っては戦ができぬ』。何事も空腹では成し得ない、ということ。
  • パリの職業見本市
    『名無しの詩人』は、さながら職業見本市のように、さまざまな仕事をしてパリで生活をつないでいました。カフェやレストランの調理補助、乗合馬車の御者、石炭の荷揚げ屋、水売り、ネズミ捕り、郵便配達夫、オペラ座のドアマン、等々。
  • 石炭の荷揚げ屋
    1875年、画家クロード・モネは『石炭の積み降ろし(Les Déchargeurs de charbon)』と題した作品を発表しました。
  • 貴族の館を闊歩するカルクブレンナー
  • ジョルジュ・サンドが鍵一に教えた、オペラ座とイタリア座の差異
    第9話『ラプソディ・イン・パリ♪』をご参照ください。
  • un poco(少々)
    イタリア語です。音楽用語では『un poco piu mosso(今までより少々速く)』といった使い方をします。
  • バルザックの秘書
    バルザックの秘書であり文筆家でもあったレオン・ゴズランは、バルザックの日常をユーモアあふれる文体で綴り、人気を博しました。著書に『スリッパ姿のバルザック』(1856年刊行)、『自宅のバルザック』(1862年刊行)など。

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