ピティナ調査・研究

第9話『ラプソディ・イン・パリ♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
18歳の新星ピアニスト・鍵一は、師匠のB氏から極秘ミッションを引き継がれ、19世紀パリへワープする。
リストのすすめでサロン・デビュー修業を開始した鍵一だったが、うまくゆかず落ち込むばかり。
そんな鍵一の前に現れたのは、『19世紀パリの紫式部』こと、ジョルジュ・サンドであった。異色の女流作家が鍵一に贈るアドバイスとは……!?
ラプソディ・イン・パリ♪

「ところでケンイチ君は、何を悩んでいるの?」
馬車に乗るなりジョルジュ・サンドに尋ねられて、鍵一は噎せた。カフェ・プロコープのアイスクリームのほろ苦い味が、まだ耳の奥に薫っている。
「どうしてわかるんです」
「迷子の子猫みたいに、ケンイチ君が哀しげにオペラ座の前に佇んでいたから」
「ぼくは自分の家も名前も知ってます、ただ……」
「わたしも知ってる。このパリでサロン・デビューを果たすまで、ケンイチ君のおうちは『外国人クラブ』のレストランの2階。日本ではそこそこ有名な若手ピアニストだけれど、この街では無名の子猫。でしょ?」
馬車が走り出すと、午後のパリの街並みはゆるやかに流れて行く。木立の間からセーヌ川のきらめきが垣間見える。残暑の熱気は空に吸われて、大気はすこしずつ金色に暮れかかろうとしている。
(この人は何でも見透かしてしまう。小説家だから?年上の女性だから……?あのショパンも、この人の前では子猫みたいな気持ちになるのかしら……)
「残念ながら、日本でもぼくは無名です」
笑って言おうとして、思いがけず鍵一は吃った。ぎこちない音を何度も口の中で噛みながら、「名前の無い子猫です」もごもごと言ってしまうと、溜息とともにちからがぬけてしまった。
「……うまくゆきません。はるばる日本から来たのに、なかなか音楽家の方々との交流が叶いません。師匠のリストさんはぼくを置いて、夏のヴァカンスに出掛けてしまいました。
エチュードの課題を1人で練習していますが、行き詰まってしまって……リストさんの仰るような『華やかでゆとりある演奏』は、どうすれば出来るのでしょうか?
近頃ぼくだけ、世界から取り残されているような気がします」
馬車の窓からひときわ眩しい光が己の手を照らして、仰げばノートルダム大聖堂の薔薇窓が午後を照り返している。ポン・デ・ザール(芸術橋)の下からいま、白い水鳥がフワリと飛び立った。
「ね、ケンイチ君」
と、女流作家は微笑んで言った。
「わたしはリストとは付き合いが長いから、彼の考えは何となく想像できるんだけれど。
ああ見えて、彼は深く思考する人だよ。ケンイチ君の身柄を引き受けたからには、人に紹介する順番とか、タイミングとか、彼なりの思惑があるんじゃないかな。公私ともに忙しい人だから、ケンイチ君にそのプランを伝えられていないだけで」
水鳥が悠々と空を横切って、西の彼方へ飛んで行く。鍵一はふと、パリ音楽院の角で自分を助け起こしてくれたリストの、大きな手の感触を思い出した。
「それに、音楽に辿り着く方法は、ピアノの練習だけじゃないと思う。
いろんな景色を見て、いろんな人と話して、いろんなものにふれて……遠回りをしてこそ、ケンイチ君は自分の音楽を見つけられる……、そんな気がする。
ケンイチ君も心のどこかでそう直感したから、ピアノを弾く手を止めて、街へ出たんでしょう?」
小説家の言葉は鍵一の心へまっすぐに沁み落ちて、
「あなたの言うとおりです、きっと」
鍵一はようやく、笑ってうなづくことができた。途端、女流作家に肩を叩かれて「ヒャッ」と跳ねる。

フルーツバスケット

「大丈夫よ、秋になったら皆パリに戻ってくるから。春までノンストップの、めくるめく芸術祭の幕開け。パリの街中に音楽と色彩が溢れて、劇場という劇場は連日連夜の満員御礼。
ちなみに、わたしのおすすめの劇場は、イタリア座とオペラ座ね」
「イタリア座?」
「イタリア語を解せる教養人文化人のみが集える劇場。ケンイチ君、イタリア語はできる?」
「Un poco(少々)※1
「Bravo!なにせ上演は全編イタリア語だからね。玄人好みの上質な作品が多くて、見応え抜群だよ。わたしもイタリア座の公演からインスピレーションを得ることが多い」
「貴族や、一流の芸術家の方々だけが入れる場所なんですね……!」
「『いちげんさんお断り』の場だから、行くならリストの紹介で入れてもらうことね。その点、オペラ座は敷居が低い。お金さえ持っていれば誰でも入れるから」
「オペラ座の方が大衆的、ということでしょうか?」
「好みの問題だけどね。オペラ座が上演するグランドオペラは華やかで、わかりやすくゴージャス。ブルジョワ受けする、よく出来たエンターテイメントなの。
わたしは面白く観るけれど、フレデリックの好みには合わない。彼の価値観に照らすと、グランドオペラはちょっと派手すぎるし、あからさま過ぎるのね」
鍵一はうなづいて、来るべき秋の収穫を想う。それは色とりどりの果実のように、抱えきれないほどの鮮やかさで飛び込んでくるにちがいない。
(遠回りをしてこそ、得られる収穫……)
明るい夕暮に、夏の名残が吹き抜けて行く。やがて馬車は歩をゆるめて、見慣れた大通りの一角に着いた。

ハート型のハンカチ

「名残惜しいけれど、今日はここでお別れだね。また会おう、ケンイチ君」
「ありがとうございました。あの、最後にひとつだけ。『夢の浮橋』について、サンドさんはご存知ですか」
「『夢の浮橋』?」
「ショパンさんから頂いた、謎のキーワードなんです。『手袋について話す気になったら、ここへ来たまえ』って、ぼくに手書きのメモを下さいました」
作家は微笑むと、ゆっくりと首を振った。
「秘密の多い人だから」
「そうですか……」
「でも、きっと重要なキーワードなのね。ケンイチ君にとっても、フレデリックにとっても。この世のたいていの謎は解けないほうが美しいけれど、彼はケンイチ君にそれを解いてほしいと思っている」
「お知らせします、もし謎が解けたら」
「いらない」
「でも」
「すべてを明らかにすることが、愛とは限らないから」
面食らった鍵一を、作家は可笑しそうに見つめると「じゃあね」夕風とともに去って行った。馬車を見送りながら、鍵一の胸の内にあたたかな灯が燈る。
(……お会いできて良かった)
同時に「しまった」ハンカチを返し忘れた事に気づいた。
辺りを見回すと、花屋の店先に薄紫色が揺れている。迷わず鍵一は駆け寄って、店主に声を掛けた。
「すみません、この薄紫色の花を、このハンカチと一緒に届けていただけますか?」
「ラベンダーだね。いいよ」
懐から鍵一が大事に取り出したハンカチを見て、店主は「おお」愉快そうに声を上げた。
「ハート型のハンカチか。かのマリー・アントワネット妃が『ハンカチは四角』と決定なさったというのに、とんだ洒落者だね。ハハハ、型破りもいいとこだよ。
お届け先はマダム?それとも、ムッシュー?」
(型破りで自由奔放。rhapsodie※2のような『19世紀の紫式部』……!)
「マダムでも、ムッシューでもありません。あの人は……ジョルジュ・サンドです」
笑って言い切った途端、鍵一の額にメロディが湧き出した。

ガーシュウィン作曲 :ラプソディ・イン・ブルー 変ロ長調

つづく

◆ おまけ
  • un poco(ウン・ポコ)
    イタリア語で『少々』の意味。音楽用語では『un poco sostenuto(やや音の長さを保って演奏する)』のように使われます。
  • rhapsodie(ラプソディ)
    音楽用語で、日本語では『狂詩曲』と訳されます。
    叙事詩を弾き語る古代ギリシアの吟遊詩人、ラプソードスの歌に由来する言葉です。
    音楽においては、東欧や南欧の民族的主題を用いた、即興的で自由な形式の作品を指します。
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