第10話『珈琲カンタータ♪』
一流の音楽家との交流をめざしてサロン・デビュー修業を開始するも、鍵一の前には多くの困難が待ち受けていた。
『19世紀パリの紫式部』こと、ジョルジュ・サンドとの出会いをきっかけに、ついに鍵一は自身の弱点に気づく……!?
♪ ガーシュウィン作曲 :ラプソディ・イン・ブルー 変ロ長調
鍵一の目の前で、いま19世紀パリの夏が黄金色に暮れようとしている。
西の空はいちめん夕焼けに燃えて、ノートルダム大聖堂の薔薇窓には紫色の雲が輝き、群青色の夜風に吹き寄せられては刻々と色合いを変えている。ポン・デ・ザール(芸術橋)を渡る人々の姿が絵画のごとく美しい。
思わず鍵一は伸び上がって、この風景の中に『19世紀の紫式部』の姿を探そうとして、
(居るはずがない!馬車で去って行ったのだから、あの人は……)
我ながら可笑しくなった。夕陽が眩しい。
カンカン帽をかぶりなおして歩き出しながら、鍵一は『ラプソディ・イン・ブルー』の冒頭を口笛で吹いてみる。
(型破りで自由奔放。ジョルジュ・サンドさんには、この曲がぴったりだな。
ぼくはといえば、聴くのは大好きだけれど、こういう『揺らぎ』で魅せるような曲を弾くのはどうも苦手で……)
はっと鍵一は足を止めた。自分の目の前に、茜色の細い影が伸びている。
(『型』……?)
(ぼくは今までのピアノ人生で、良い意味で『型』を破ったことがあっただろうか?)
鍵一は慄然と茜空を仰いだ。
(ぼくはいつも先生の言うとおりに、楽譜に書かれているとおりに、教則本の指示のとおりに、『正解』を弾こうとしてきた。その姿勢は決して間違ってはいない。クラシック音楽において、『型』の習得は大前提。
ただ、ぼくの場合、『型』の中で考えを止めてしまうことが多かった気がする。
『型』どおりにやろうとするあまり、自分の頭で音楽を組み立てることを怠っていた……
リストさんの下さったアドバイス、
『ケンイチ君の演奏はな、まじめすぎやねん。もっと遊び心というか、音のゆとりがほしい』※1という言葉の真意は、それなんじゃないか?)
白い水鳥が二羽、水面に長い光の跡を引いて、セーヌ川を横切って行く。
そのさざ波の行く手を呆然と鍵一が眺めていると、突如として巨大な夕陽が現れた。まともに夕陽を浴びて全身赤色に染まりながら、鍵一は眩しさをこらえ、夕焼けを仰ぎ、8分の7拍子で自分の影を踏み、たまらず駆け出した。
(それだ、それだ、ぼくの弱点はそれなんだ……!どうしよう、どうすればいいんだろう?誰かに相談したい。でも誰に?リストさんはヴァカンス中。ヒラーさんは演奏旅行中。アルカンさんは音楽院で講義中。
そうだ、こんな時こそワープじゃないか!あの鍵盤ハーモニカを吹いて、頼れる音楽家のところへ飛ぼう!)
ドブ板を飛びこえ、人々の間をすりぬけ、息せき切ってパリ音楽院の角を全速力で曲がろうとした瞬間、
「ヒャッ」
「あたッ」
誰かにぶッつかッて、鍵一はスッ転んだ……!途端、油の匂いが鼻をつく。
「あいたた……」
「す、すみません!」
慌てて鍵一が顔を上げると、パッションピンクの髪。レモンイエローのシャツ。ココナッツブルーのスラックス。年齢不詳、性別不詳のその人が、「ちょっとアンタ、気をつけなさいよ!」長い手足をバタバタさせている。鍵一は転んだ痛みも忘れて立ち上がった。
(ぼくはこの人を知ってる……!)
「ドラクロワさん……!『色彩の魔術師』こと、画家のウジェーヌ・ドラクロワさんですよね?」
前のめりに鍵一が尋ねると、相手はキョトンとうなづいた。
「誰よアンタ。どうしてアタシの名前を?」
(やっぱりドラクロワだ!自画像よりはだいぶカラフルだけど、このチャーミングなお顔……間違いない。それにこの匂い、もしかして)
「あなたの大ファンです!……正確には、ぼくの叔父が」
「なんですって?」
「ぼくの叔父は画家なんです。日本の京都という歴史都市にアトリエを構えて、昔からよくあなたの作品の模写をしてました。油絵具の匂いにみちた叔父のアトリエで、ぼくはあなたの画集を何度も見たんです。あなたの絵はどれも衝撃的で……怖いんだけれど、目が離せなかった。『ダンテの小舟』、『キオス島の虐殺』、それから、フランス七月革命を大胆に描いた『民衆を率いる自由の女神』……!」
相手の表情がみるみるほころぶと、アップルグリーンの瞳がきらめいた。
「うれしいわ。絵というのは、画家とそれを見る人の間に心の橋を架けるもの。アンタはその橋を渡れる子なのね。名前は?」
「鍵一です」
「えッ……もしかしてアンタ、『外国人クラブ』に居候してる子猫ちゃん?」
「そうです!それに、『外国人クラブ』のレストランの2階……今ぼくが泊めて頂いているあの部屋は、もともとドラクロワさんの部屋ではありませんか?」
「そうよ、そうよ、アタシの部屋よ」
「やっぱり。油絵具の匂いは独特だから、もしやと思いまして」
「大当たり!」
ドラクロワはピョンと飛び上がると、嬉しそうに鍵一の手をギュッと握りしめた。
「ナイスタイミングね。アタシ今から『外国人クラブ』を訪ねるとこだったのよ。リストから『面白い子猫を拾ったんやけど、夏のあいだ放置してしもて。様子見てきてくれへん?』って手紙が来たから」
鍵一の胸に温かいものが込み上げて、ホッと笑顔が漏れた。
(リストさん、気にかけてくれていた……)
「ドラクロワさん、リストさんと仲良しなんですね」
「リストだけじゃないわよ。パリのアーティストはみんなアタシのお友だち。特にサンドは大親友なの。恋愛でも仕事でも、なんでも相談できる仲よ。
そうだ、これから『外国人クラブ』に行きましょうよ。アンタのこともっと知りたいわ。
それに、久々にシェフ特製の珈琲が飲みたいもの。悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い、あの珈琲!アタシ大好きよ」※2
「あいにくシェフはイタリアに出張中なんです。バッハの『珈琲カンタータ』なら、ぼくでもなんとかご用意できますが」
「あら、バッハにそんな曲があるの?おもしろいわね」※3
声を上げてドラクロワは笑って、
「どうせなら今度、『外国人クラブ』のメンバーのオリジナルブレンドで聴かせてちょうだいよ」
うきうきとレストランのほうへ歩き始めた。鍵一もならんで歩き出しながら、
(オリジナルブレンド……確かにリストさんやヒラーさん、アルカンさんなら、それぞれの個性を溶け合わせて、すばらしい味を創り出すことができる。
逆に考えると、ブレンドは珈琲豆それぞれの個性が立たないと成立しないんだ。
さて、ぼくの個性って何だろう?)
考えれば考えるほど、鍵一の頭の中で、悩みは薄黒く煮詰まってしまう。
路地へ入ると青い夕闇がおりて、周りの家々に灯が燈り始めた。
「それにしてもアンタ、さっきは何をそんなに急いでたのよ」
「すみません、『型』の破り方について、ちょっと色々考えていまして……居ても立ってもいられなくて」
「なるほど。青くて正しいお悩みね」
ドラクロワは夕空を仰いで少し考えると、ポンと手を打った。
「ちょうどいいわ。アンタ、今夜ちょっと付き合いなさいよ。もしかしたら、お悩み解決のヒントをゲットできるかもよ」
「はいッ……でも、どこへ?」
「きもだめし」
パッションピンクの髪を揺らして、『色彩の魔術師』はニコッと笑った。
つづく
第7話『檸檬色のエチュード♪』をご参照ください。
タレーランはナポレオン・ボナパルトの右腕として活躍した人物です。フランス料理界の巨匠カレームとタッグを組み、『美食外交』を展開した事でも有名。
ドラクロワの実の父親だという噂もありましたが、真偽は不明です。
今や『音楽の父』と称されるバッハも、1830年代のパリではまだ知られていなかったようです。