ピティナ調査・研究

第7話『檸檬色のエチュード♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
新星ピアニスト・鍵一は、人生に迷える18歳。
師匠のB氏より極秘ミッションを引き継がれたことから、彼の運命は一変する。
19世紀パリへワープした鍵一を待ち受けていたのは、
ショパン、リスト、アルカン、ヒラーという、綺羅星の如き音楽家たちであった。
一流の音楽家たちとの交流をめざして、ついに鍵一のサロン・デビュー修業が始まる……!
檸檬色のエチュード♪

(あれ? ピッチがおかしい)
弦をツンとつまんで、鍵一はその細くやわらかな感触に驚いた。
(この時代のピアノの弦は華奢だなあ。モダン・ピアノと同じような弾き方をすると、すぐ調律が狂っちゃう。これから気を付けなきゃ)
「ニャ♪」と、白黒ねこのフェルマータがしっぽを立てて来る。ふと、昨晩のできごとが夢のように思い出されて、
(リストさん、アルカンさん、ヒラーさん……、このプレイエル社製の猫ピアノで、ぼくはたしかに彼らと即興演奏会をしたんだ。でも、それは本当にあったできごとかしら? ぼくの夢の中だけで起きた事なのかしら。
ああ、記憶というものは、昨晩と今朝とをつなぐものさえ、なんて儚いんだろう! 
まるでショパンさんのくれた謎のキーワード、『夢の浮橋』みたいに……)
「ボンジュ(Bonjour)♪」
勢いよく扉がひらいて、往来の風が鍵一の思索を吹き飛ばした。
「リストさん! おはようございます」
「よう眠れたか? 今朝はまた凄い人をお連れしたで♪」
と、リストの後から小柄な紳士が、ステッキを付いて入って来る。
いかめしい風貌のその御方は、朝の光のなかに彫像のごとく、輪郭を際立たせていた。
頬には幾多の苦難の痕が Serioso ※1で刻まれ、しかし両の眼は並ならぬ輝きを放っている。
「ここにおわす御方をどなたと心得る♪ かのマリー・アントワネット妃、かの楽聖ベートーヴェン先生にもピアノを献呈しはった、セバスチャン・エラール様……」
「ハハーッ」
「……の、甥のピエール様なるぞ♪」
(エラール! プレイエル社と並ぶ、あの老舗ピアノメーカーの創始者……の、甥御様なのね)
「セバスチャン・エラールさんは、ウチのパリ・デビューを手助けしてくれはった恩人や。
残念ながら7年前に亡くならはったけど、甥御さんのピエールさんが、ひきつづき助けてくれてはる。お声もお顔のかたちも、セバスチャンさんによう似てはるわ。
そこの音楽院の角でお会いしたもんやから、ついでやしケンイチ君に引き合わせよと思てな♪」
シェフがすッ飛んで来て客人に椅子と珈琲をすすめる。ピエール・エラール氏は身じろぎもせず、静かに口をひらいた。
「私はすぐ失礼するよ。商用でロンドンへ行かねばならん」
「ケンイチ君、なんぞサラリと弾いてくれへんか♪」
「はい!あっ、でも調律が」
「調律?」
ピアノの前であたふたする鍵一を、エラール氏は片眼鏡の奥から鋭く一瞥した。
「きみも音楽家の端くれなら、ピアノの構造くらい知っておきたまえ」
「す、すみません」
エラール氏はピアノに歩み寄るや、胸ポケットから調律用のピンと小型ハンマーを取り出して「サササのサ……と」、目にもとまらぬ早業で調律をやりおおせた。
(しまった、この時代のピアノは、調律というよりは『調弦』……! ピアニストが自分で調律できて当然なんだ)
「不勉強で申し訳ありません!ありがとうございます、で、では演奏を」
「結構」
エラール氏は仕事道具をしまうと、機敏な身のこなしで表の扉へ手をかけた。
「きみのような鼻タレ小僧の腕前なぞ、聞かずともわかる。レモネード※2で顔を洗って出直しなさい」
「!」
「リスト君。近いうちまた、私のサロンホールにおいで。では」
「オボワ(Au revoir)♪」
ニコニコと見送るリストの隣で、
(聴いていただけなかった……ぼくのピアノを……)
鍵一は呆然と立ち尽くすほかない。扉がゆっくりと閉まった。
「すみません、リストさん……せっかく引き合わせてくださったのに」
「いや、ケンイチ君。あれはエラールさんの褒め言葉やで♪」
「えッ、あれが!?」
「『あんた、これから伸びそうやん。しかるべき時と場所で、あらためて聴かしてや』ていうことや♪
なにせ、エラールさんは4半世紀にわたって、ヨーロッパ中の若手音楽家を見て来た御方や。
審美眼はほんまもんやで。なかには『熱々のコーン・ポタージュで顔洗って2度と来るな』言われる若手もおるねんから」
(ヒャア!)
「じつはさっきな。レストランに入る手前から、ケンイチ君の弾くエチュードが店の外まで聴こえてたんや。ほんの数小節やけど、エラールさんは足を止めて聴き入ってはった。
それからひとこと、
『基礎の詰まった指だな』
と言わはった。
ケンイチ君、その評価の意味がわかるか?」
「いいえ……?」
「じつはウチも昨晩、ケンイチ君の演奏を聴いて、同じことを思たんや。
ケンイチ君は基礎がしっかりしとる。パリ音楽院の、ヅィメルマン先生の男子ピアノクラスの子と比べても、遜色ないレベルや。それはケンイチ君の手指の筋肉の付き方を見ればわかるし、聴けばもっとわかる。音の粒ひとつひとつが丁寧に生成されてて、まるで真珠のようや♪」
(うれしい)
手指がムズムズとこそばゆいのを、鍵一はそっと背中へ隠してうなづいた。
「ただな、詰まりすぎてるねん。音楽が。ケンイチ君の演奏はな、まじめすぎやねん。
できればもうちょっと遊び心というか、音のゆとりがほしい」
鍵一の額にじわりと汗が滲んで、
(同じだ……!)
と思う。
「同じことを言われました、日本で。コンクールを受けたときに、審査員の方から」
「せやろ。まあ、パリで1年も暮らせば、ゆとりは自然に身につくもんや♪」
「がんばります」
うなだれる鍵一に、
「レモネード認定おめでとう」
シェフがおどけたしぐさでグラスを出してくれる。陽気なレモンイエローが、鍵一の心をふんわりと明るめた。

「そういえば、さっきケンイチ君の弾いてた曲♪ チェルニー先生のエチュードやろ?」
リストはクロワッサンを片手にピアノの傍へ寄ると、フーガをぱらぱらと弾いてみせる。
「なつかしいわあ。ウチもチェルニー先生に習うてた頃、よう練習したもんや♪」※3
「リストさん、チェルニー先生に師事していらしたんですか?」
「11歳の夏から1年半な。毎日が濃くて、ほんまに特別な時間やった。
今のウチがあるんは、チェルニー先生が基礎をみっちり教えてくれはったおかげや。
超絶技巧いうても、もとをただせば基礎の積み重ねやし」
(ピアノ制作者のセバスチャン・エラールさんと、巨匠チェルニー先生。おふたりとも、リストさんの音楽家人生を導いた方なんだな)
「ちなみにチェルニー先生もねこ好きやで♪」
「ニャン♪」
と、白黒ねこのフェルマータがリストのひざへ飛び乗った。リストは大きな手指で「猫背♪猫背♪」ねこのまるみを撫ぜると、鍵一へ向き直った。
「チェルニー先生は無償でレッスンをしてくれはった。必要とあらば、楽譜も調律道具もくれはった。紹介状も書いてくれはった。ウチもチェルニー先生の方針に倣うつもりや。
どや、ケンイチ君。そういう条件なら、『1文無しでパリに1年間居座る方法』、見つかりそうか?」
うなづく鍵一を、フェルマータがおもしろそうに見上げている。
「食事と住まいは大丈夫です。こちらのレストランに、『メニュー開発&レシピづくり協力者』という名目で、居させていただける事になりました。
このお店ならピアノの練習もできますし、『外国人クラブ』の音楽家の方々と交流しながら、サロン・デビューを目指すことができます……」
言い終わらぬうちに、鍵一の脳裏にシェフとの会話が浮かぶ。
(料理人にとってのレシピと、音楽家にとっての楽譜は同じ……!)
「リストさん、ぼくにソルフエージュを任せていただけませんか?」
「ほ?」
「即興で弾いてくださった曲を、ぼくが楽譜に書き起こします。お代は、オペラ座の末席で公演が1回観られるくらいの値で結構です」
リストはキョトンと健一を見つめ、白黒ねこのフェルマータと顔を見合わせ、
「フム♪」
その表情がパッと笑いに変わる。途端、やにわにピアノを弾き出した。
「リストさん、その曲は!?」
「レベルアップの音楽や♪」

ベートーヴェン作曲 :ピアノ・ソナタ 第29番「ハンマークラヴィーア」 第1楽章 Op.106

「ケンイチ君。サロン・デビュー修業課題の第1問、みごとクリアやな♪」
「あ……ありがとうございます!」
「しかしほんまの修業はここから♪」
リストは店の本棚から次々に楽譜を抜き出すと、鍵一の前へズラリと並べてみせた。
「全部エチュードですね……!」
「エチュードは基礎にして奥義や。名だたる方々の集うサロンで、エチュードを完璧に、かつ華やかに弾いてみせるんは、最高にクールなことやで♪」※4
「えッ、サロンでエチュードを披露するんですか?」
「みんな弾いてるで。作曲者本人の前で、ちょっとアレンジして弾いたりな♪」
(エチュードはただの指の訓練じゃない。サロンでお客様に聴かせる価値のある、華やかな技巧曲なんだ……!)
「ケンイチ君にはこれから最低3ヵ月間、エチュードにみっちり取り組んでもらうで。
基礎を伸ばしつつ、華やかでゆとりのある演奏をめざすんや♪」
「はい、よろしくお願いいたします!」
「よし、さっそくレッスン開始や♪ シェフ、邪魔するで」
「お好きなだけどうぞ」
シェフが表の扉を開けると風が吹き抜けて、窓辺のスズランがきらきらと揺れた。

つづく

◆ おまけ