ピティナ調査・研究

第4話 音楽とは、創造を醸し出す葡萄酒である♪

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
音楽とは、創造を醸し出す葡萄酒である♪

「ケンイチ君、弾けるやないか!」「『吾輩は猫である』、気に入ったよ♪」「驚いた、日本人の演奏技術がここまで高いとは……!」
拍手とともに音楽家たちが立ち上がって来るのを鍵一は夢見心地で眺めて、
「これであんたも『外国人クラブ』のメンバーや♪」
リストにシャンパーニュのグラスを差し出されて我に返った。
(良かった、なんとかなった……!)
「さあさあ、『大彗星のヴィンテージ』やで※1、遠慮せんと飲みよし♪
かの楽聖ベートーヴェン先生もこう言うてはる。『音楽とは、創造を醸し出す葡萄酒である』とな♪」
「ありがとうございます……!ええと、ぼくはぶどうジュースで♪※2
4つのグラスと「乾杯♪」の声が賑やかな和音を響かせて、鍵一は心底ホッとした。
「じゃ、次はアルカン君♪」
「テーマは『ねこ』だね」
鍵一と入れ替わりにアルカンがピアノの前に座ると、さっと空気が鎮まる。
(空気が澄みわたる……心なしか辺りが涼しい。この人の持つ独特の静けさが、夜風を運んで来る……)
「……ある夏の夜、ふと空を仰ぐと月が輝いていた。
ちょうど今夜のような三日月が、猫の目のように煌々と地上を見下ろしていた。
そのときふと思った、我々が月と仰ぐものは、じつは巨大な『宇宙猫』の眼なのではないか……と。
フランス革命、ナポレオン失脚、王政復古、ギリシャ独立戦争、我々が歴史と呼び書物に記すそれらの出来事は、『宇宙猫』にとっては微々たる光の明滅に過ぎない。
『宇宙猫』の網膜に刻まれる歴史の詩は、『聖典』唯是のみ」
(……!)
この音楽家は紫陽花色の瞳で天を仰ぐと、そっと夜へ溶け込むように、 misterioso ※3で弾き始めた。

アルカン作曲・12か月集:12の性格的小品 Op.74より『夏の夜』

(格調高い調べ、詩情の薫るハーモニー……!
『フランスの至宝、ほほえみの修行僧』こと、アルカン シャルル=ヴァランタンさん、確かに、ショパンやリストに並ぶ大音楽家にちがいない……!)
次第に音色は高くゆらめき、つめたい大気に晒されてはきらきらと砕ける。
無数の音の粒子は何万光年も彼方へ飛び去り、『宇宙猫』の網膜に吸われた。……
bravo ♪」
とリストの叫ぶ途端に空気が動く、ヒラーの肉厚の拍手がホッカホッカと響く。
「ええわあ、水月※4の風情やな。アルカン君らしいわ♪」
「アルカン君の拠り所はいつも聖書なんだね」
(そういえば、アポロ8号の宇宙飛行士が月から伝えてきたメッセージも、聖書『創世記』の一節だったなあ)※5
「僕は最近、聖書の翻訳に着手したところなんだ。誰のためでもない、己の信仰を深めるためにね」
「ヘブライ語をフランス語に?音楽と並行して、ようやるなあ」
アルカンは差し出されたグラスをひとくち飲むと、微笑して席に戻った。
「君たちもやってみたまえ。対象を深く研究するのに、翻訳という手法はとても有効なんだ。
翻訳すなわち、聖書のことばを呑み込んで自分の中で再構築する……、という事だからね。 
全編訳はなかなか骨が折れるけれど、ライフワークとして続けるよ」※6
(なるほど!)
bravo ♪」
「じゃ、次はおれかな♪」
フェルディナント・ヒラーは「よっこいしょ」ピアノ椅子にどっかりと腰掛けると、
「これは数年前、一匹のねこに捧げようと書き下ろした曲でね」
espressivo ※7で歌いながら弾き始めた。
「そのねこは彗星のごとく現れて、どのサロンでも人気者♪」
(弾き語り!器用だなあ、さすが『多芸多才の博識ドイツ人♪』こと、フェルディナント・ヒラーさん♪
明るく透明な曲調……誰からも愛される、夏の朝のさわやかな向日葵のような♪)

ヒラー作曲・ワルツ Op.188 ニ長調

「王侯貴族の集うサロンでは限りなく優雅にふるまい、新進気鋭の芸術家の集うサロンでは詩の題材になり、下町のレストランへ行けばネズミを捕り、子猫がいれば世話を焼く。
とかく器用ですばしっこくて、愛嬌は抜群♪
一時期は誰も彼もそのねこに夢中だった!猫も杓子もねこブーム」
(なるほど、サロンというのは、上流階級の人々や芸術家たちの社交場……!
しかも、性格の違うサロンがいくつもあるんだな。
ねこみたいにサロンに入り込めば、多くの音楽家たちにインタビューができるはず……!)
「ところがあるとき、奴はふいと消えちまった。
するとどうだ、あんなに奴を可愛がっていた連中は、だれも奴の噂をしなくなった。
あるご婦人などはこう言った、
『そういうねこがいたような気もしますけれど、今となってはあのねこが、この世に存在したのかどうかも怪しいですわ』
可笑しくも、哀しいじゃないか同胞よ。
誰からも愛されるということは、誰からも愛されないのと同じなのか?
なんでも出来るということは、なんにも出来ないことと同じなのか?
なんだか無性に哀しくなって、だからおれは勝手に奴を名付けてやった。
おれと同じ『フェルディナント・ヒラー』という名前をね♪
この世で一人おれだけは、あのねこのフサフサした毛並みと金色の眼の美しさを、生涯覚えていようと思うよ。
以上、おそまつさま♪」
bravo !」
(どんなに時代に愛されても、多芸多才であっても、後世に名を残せるとは限らない……
哀しい事実をこの人は深く知ってる。その上で、これからも音楽家として生きていくんだ。
ああ、それはぼく自身も同じか……)
鍵一がそっと溜息をつく、その隣でリストがグラスをヒョイと飲み干した。
「皆さま、おおきに!おかげですばらしい音楽会になった♪ 
最後にウチは、とっておきの暴れ猫を紹介させてもらうで♪」
颯爽と髪をなびかせて、ピアノに座るやいなや brillante ※8で弾き出した。
(!!)
大きな手指が目にもとまらぬ速さでひらめき、極彩色の花絵巻を繰り広げてゆく。

リスト作曲 :パガニーニによる超絶技巧練習曲集 より『第6番』

(この超難曲をなんて楽しそうに!なんて艶やかに弾くんだろう、この人は……!
まさに『ピアノのパガニーニ※9』、フランツ・リストさん!
変奏が展開するたびに新たな花園が湧き出る。あるときは大輪の紅牡丹、またあるときは群れ揺れる白百合。
ねこは花園で遊んでる、自由奔放に跳ねたり、宙返りしたり……
それに、このピアノ!)
鍵一はムズムズとこみあげてくる可笑しみを噛みながら、弾くリストと応えるピアノを眺めた。
(このピアノ、ぼくが弾いたときはフワフワの子ねこだったのに)
次々に艶やかな花がひらき、眩しい景色が加わる、ねこはひときわ高く跳ね上がると、巨大な虹を駆け上って行った……!
bravo !」
思わず立ち上がって拍手する鍵一に、リストはにっこりと手を振ってみせる。ヒラーが思いきり口笛を吹く。アルカンが微笑しながらうなづいている。
(これぞ19世紀パリのヴィルトゥオーソ!bravo!bravo!bravo!)
笑いと拍手のままに即興の音楽会が終演すると、リストが一同に目配せした。
音楽家たちはそれぞれのグラスを持って立ち上がる。
「それでは、改めまして。ケンイチ君の『外国人クラブ』入会を祝して♪」
「ケンイチ君の探しているねこが早く見つかることを祈って」
「乾杯♪」
「ありがとうございます♪」
4つのグラスが明るい和音を奏でる。皆笑いながら席に着いて、親しい食事は再開された。
(ぼくはなんて幸せ者なんだろう!夢のようなこの時間……!)

「ところでケンイチ君♪」
ふいにリストが振り向いて、鍵一は慌ててナマズのしっぽ※10を飲み込んだ。
「ヒャイッ」
「さっき弾いてくれた曲、ショパンの『ねこのワルツ♪』やろ?
あの曲はまだパリでも出版されてへんはずやけど、よう知ってたなあ※11
(しまった!慎重に選曲しないと、未来人であることがばれてしまう……!)
「え、ええと……今日パリの街をうろうろしていたときに、どこかのお宅の窓から聞こえてきたのが、さっきの曲なんです……!
ぼくは日本でソルフェージュ※12の勉強をしていましたから、あれくらいの短い曲でしたら、一度聴けばピアノで再現できます」
しどろもどろに鍵一が説明すると、音楽家たちは「へえ!」と身を乗り出して、興味を惹かれた様子。
「日本の音楽教育でも、ソルフェージュって主流なんや」とリストが腕組みすれば、
「ケンイチ君が通り掛かったのはきっと、ショパンが住んでるショセ・ダンタン地区※13だね」
とヒラーがうなづき、
アルカンは鍵一のグラスにぶどうジュースを注ぎながら、
「あれだけ弾ければ、日本では大スターじゃない?いったい、今までどんな修業を?師匠は誰?」
紫陽花色の瞳で微笑みかけてくる。
(未来人であることがばれないように気をつけないと……でも、この人たちには嘘を付きたくない。
よし、話してみよう。できるだけ誠実に……)
「……ぼくの耳が初めて音楽に拓かれたのは、3歳の時です。
B先生という方のピアノの演奏を聴いて衝撃を受けて、自分ではあまりよく覚えていないのですが……両親にピアノをねだりました。
実家のリビングには、3歳のぼくが描いたいびつなピアノの絵がまだ掛けてあります。
それはまるで舟のかたちなんです。頼りない一艘の小舟……
両親はぼくにトイピアノ※14を買い与えてくれて、それがぼくの音楽家としての航海の始まりでした」
「ケンイチ君の師匠は、そのB先生なんやね」
「はい、とても博学な先生で、音楽だけではなく古今東西の文学、哲学、自然科学にも通じていらっしゃいました。
B先生のお屋敷には立派な書斎があって、先生はレッスンのたびに、ぼくに本を貸して下さいました。
子どものころのぼくの愛読書は、夏目漱石という日本人作家の『吾輩は猫である』です♪」
「『名前はまだ無い』、ね♪」
「レッスンはいつも、お借りした本の話から始まるんです」
話しながら鍵一の脳裏に、懐かしい風景が浮かんでいた。
「ぼくが本の感想を話し出すと、B先生は本にちなんだ曲を即興で弾いてくださる……
それをぼくは楽譜に書き写す……
それが、B先生のソルフェージュの授業でした」
さらにB先生はぼくに、古今東西の楽譜の読み方も教えてくださいました。
おかげでぼくは、イタリア語とドイツ語と英語、それにフランス語も、日常会話程度でしたら出来るようになりました」
「すごいやんか♪」
「ぼくが14歳になったとき、B先生は自分から離れるようにと仰いました。
『おまえはワシの影響を強く受け過ぎておる。いちどワシの元を離れて、大海へ漕ぎ出すがよい。ただし、ピンチの時は頼って来い』
と仰ってくださいました。
ぼくはB先生の存在を心の支えにしながら音楽学校へ入学し、ピアニストの登竜門とされるコンクールで優勝して、念願のプロ・デビューを果たしました。
音楽事務所がデビュー・コンサートの依頼をくれて……でもその契約書を見たとき、ふと疑問に思ったんです。
ぼくは何のためにピアノを弾いているんだろう?これから何を目標にすればいいんだろう?と……
行き詰まったぼくにこの旅をすすめてくださったのが、B先生でした。
『偉大な音楽家との対話は、おまえにとって良い勉強になるじゃろう』と。
ぼくにはまだ、自分の将来は見えません。
ただ、この旅で、必ず何かを掴めるという予感がしています」
話し終えた鍵一が会釈すると、アルカンとヒラーが顔を見合わせる。
リストは大きくうなづいて、
「なるほどな、あんたの状況はようわかった。
日本の音楽事情はヨーロッパと違うてるけど※15、音楽家の悩みは共通やな」
『大彗星のヴィンテージ』を飲み干して、グラスを置いた。
「ケンイチ君。サロン・デビューを目指してみいひんか?」
「ええっ!?」
驚いて顔を上げた鍵一に、リストがウインクする。

つづく

つづく

◆ 注釈
  • 音楽とは、創造を醸し出す葡萄酒である♪
    『楽聖』と称される大音楽家ベートーヴェンは、ワインをこよなく愛していた。
    この美しい飲み物を音楽に喩えたベートーヴェンは、表題の言葉を次のように続ける。
    『私は人々のためにこの精妙な葡萄酒を搾り出し、人々を酔わせる酒の神バッカスである。』
  • 大彗星のヴィンテージ
    1811年はヨーロッパ全土でワインが大豊作であった。
    同年に巨大彗星が現れたことから、この年のワインは『彗星年のワイン』と称され、珍重されている。
    『外国人クラブ』にて音楽家たちが飲んでいるのは、老舗ワイナリー、ヴーヴ・クリコの1811年製シャンパーニュ。
    なお、1811年は音楽界の大彗星、フェルディナント・ヒラーやフランツ・リストの生まれ年でもある。
  • ぶどうジュース
    2019年現在、日本の法律では未成年の飲酒が禁止されています。
    お酒は20歳になってから。
  • misterioso(ミステリオーソ)
    音楽用語で『神秘的に』の意。
  • 水月
    池や湖などの水面に映る月。 実体の無い幻のようなものの喩え。
  • アポロ8号
    アポロ8号は、アメリカのアポロ計画における有人宇宙飛行。
    1968年12月に月の周回軌道に入った飛行士たちは、地球へのメッセージとして、旧約聖書『創世記』の第1節から第10節までを交代で朗読した。
  • アルカン氏の聖書翻訳
    アルカン氏は自身の信仰を深め、聖書を研究するために、ヘブライ語の聖書をフランス語に訳す取り組みをしていた。
    1858年、ヒラー氏に宛てた手紙で、『4分の3を訳し終えた』と書いている。
    なお、アルカン氏はユダヤ教徒なので、彼の言う『聖書』とはヘブライ語聖書のこと。
    ラテン語で書かれたカトリックの聖書とは異なる。
  • espressivo(エスプレッシーヴォ)
    音楽用語で『表情豊かに』の意。
  • brillante(ブリランテ)
    音楽用語で『輝かしく、華やかに』の意。
  • ピアノのパガニーニ
  • ナマズのしっぽ
    第3話『ねこのワルツ♪』をご参照ください。
  • ショパン作曲のOp.34-3、通称『猫のワルツ』の出版年
    ロンドンとライプツィヒで1838年12月、パリで1839年1月に出版された。
  • ソルフェージュ
    楽譜の読み書きなど、西洋音楽における基礎訓練。
  • ショパンが住んでいたショセ・ダンタン地区
  • トイピアノ
  • 日本の音楽事情
    19世紀ヨーロッパでは、現代のような音楽コンクールは存在しない。
    また、音楽家のマネジメントやサポートを担当する音楽事務所についても、ピアノについてはまだ存在しない。

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』 TOPへ