Vol.12 大橋拓文さん(囲碁棋士)
囲碁棋士の大橋拓文七段は、若い頃にはあまり公にしてこなかったピアノとの関係を、今は囲碁界内外の交流に積極的に役立て、新たな楽しみを見つけています。日本のAI囲碁研究の先駆的存在でもある大橋さんに、AI時代のピアノ演奏の価値についてもお話を伺いました。
プロ囲碁棋士として現在どのような活動をされていますか?
自分の囲碁の試合は年間30回ほどありますが、その他に囲碁を教えたり、アマチュアの大会やイベントに指導として参加する機会も多くあります。海外での囲碁の普及にも興味があり、年に1,2度は海外へ行っています。囲碁は日本以外ではやはり韓国、中国、台湾などアジアが中心で広まっていますが、最近は欧米での普及も盛んで、この年末もロンドンへ行きます。海外へ行くと会場周辺にピアノが置いてあることが結構あるので、ちょっとピアノを弾いて仲良くなったりと、ピアノが弾けることが役立つ場面もあります。
囲碁とピアノは幼少期から始められたのですか?
囲碁は父が好きで、休みの日に囲碁の大会に行って打つ姿を幼い頃から見て育ちました。しっかりとルールを覚え始めたのは4歳の頃からで、小1になって師匠の囲碁道場に通い始めました。週3回40分ほどかけて通ったのですが、父がかなり送迎をしてくれていました。
ピアノは初めて先生の所へ通ったのが4歳になる1か月前だったので、習い事としてはピアノの方が少し早かったですね。両親どちらもピアノを弾かないのですが、クラシック音楽が好きでN響アワーなどをさりげなく見せられていた影響か、3歳の頃に自分からピアノをやりたいと言ったそうです。近所のピアノ教室に行ったのですが、音符ひとつひとつに色を塗ったり、楽しく好きなようにやっていました。
小学生、中学生の頃は、クラスの合唱の伴奏などもやっていて、実はけっこう好きでした。人前で一人で弾くのは今でも緊張するのですが、伴奏の時はあまり緊張しなくて。10歳ぐらいまで、囲碁道場に行かない日は一日一時間くらいピアノを弾いていましたが、小学校高学年の時はちょっと中だるみ気味。中学生になってから再燃してたくさん弾いていたように思います。たしか六年生の頃にホロヴィッツが弾いたベートーヴェンのソナタのCDを聴いて衝撃を受けてベートーヴェンが好きになり、それからグレン・グールドのベートーヴェンのCDを買ってグールドにはまりました。中学の国語の先生が音楽好きで給食の時にグールドの話をしたという思い出もあります。その後、フジコ・ヘミングさんのドキュメンタリーを観てリストとショパンも好きになりました。
習い事の一つだった囲碁が本格的になってきたのはいつ頃ですか?
小学生の全国大会で準優勝したすぐ後に、初めて日本代表として国際試合で台湾へ行ったのが10歳の頃でした。その頃の自分はまだ将来について深く考えていませんでしたが、周りのそういう雰囲気を感じましたね。そして、17歳でプロになりました。囲碁界もピアノと似てどんどん早熟になってきていて、今では10代前半でプロになる人も増えてきています。
プロになってからはピアノとはどう付き合ってこられたのでしょうか?
当時の囲碁界では、プロを目指すのなら囲碁以外のことをするのはよろしくない、囲碁に集中しなさい、みたいな風潮がありました。なので、ピアノも音楽の授業の前後の休憩時間に弾いたり合唱の伴奏をしていましたが、あまり囲碁界では弾いていることを言わずに来ました。ピアノを弾いていることを隠さなくなったのは、20代後半になってからですね。
でも地元だとピアノが弾けることが知られていたようで、プロになってすぐの頃、地元のアマチュア大会で、賞状を書いている15分の間のピアノ演奏を依頼されたことがあります。ショパンの「軍隊ポロネーズ」とベートーヴェンの「悲愴」第二楽章を弾きました。その時の大会に参加されていた元・日フィルのパーカッションの方が感激して話しかけてくださり嬉しかったのを覚えています。その10年後くらいに、その方から提案をいただいて、ペア碁大会※の前夜祭で初めてのピアノトリオを日フィルOBの方と共演させていただきました。人生初のピアノトリオでそのような機会をいただき感激しました。その頃から、だんだんピアノを弾いていることもオープンにするようになりました。
- 男女ペアになり交互に打つ形式。テニスや卓球でいうダブルスのような囲碁の対局。
囲碁をされる時に、ピアノをやっていることが役に立っていると思う瞬間はありますか?
自分にとってはピアノは趣味ではありますが、なくてはならないものです。脳が音楽成分を求めていると感じる瞬間は結構あって、弾くことで脳をチューニングしているような感覚があります。ストレスを軽減したり、頭をクリアにしたりと自分の脳の状態をよくしてくれているので、対局前に音楽を聴いてから行ったりします。実はおもしろいことがあって、対局中に脳内で響いている音楽で、その日、好調か不調か分かるんです。バッハなどが流れている時は、整ってくる感じがあるのですが、シューマンのコンチェルトとかが流れている時は、精神がちょっと不安定になりがちなのか勝率が良くないです。シューマンのコンチェルトは一番好きなのに・・・。昔は、負けた時によく弾く曲というのもありました―「月光」の第3楽章とか。
内面的にはそのような感じですが、外に向けては、コミュニケーションに非常に役立つということですね。特に外国に行った時は、囲碁をやる方にはエンジニアとか理系の方が多いのですが、実は楽器をやっていたりと隠れ音楽ファンみたいな人がすごく多くて、文化的背景が全然違っても、そういう所で仲良くなれたりします。
ピアノと囲碁とで共通して必要な力などありますか?
僕はわりと楽譜も視覚で目に焼き付けて、目をつぶって目の奥に映っている楽譜を思い浮かべながら弾いたりしているのですが、囲碁でも棋譜を目に焼き付けて覚えます。みんなそうなのかなと思っていたら、意外とそうじゃない人もたくさんいて驚きました。ピアノと囲碁、どちらが先でそうなったのか分からないのですが、覚え方が共通しているなと思います。
ピアノをやっていることで、活動の幅や交流の輪が拡がりましたか?
そうですね、色々な拡がりがあります。もう知り合って15年ぐらいになりますか。ジャズピアニストの若井優也さんと、西新宿にある碁盤とベーゼンドルファーがある白龍館という中華屋さん(名物はトマトタンメン)で、ピアノと囲碁で遊んでいました。若井さんは囲碁五段なんですよ。そこに白龍館の常連で作曲家の新実徳英先生がいらっしゃって深夜まで音楽談義したり。つい最近、実は若井さんと作曲と囲碁の交換レッスンを始めました。白龍館はもう閉店してしまったのですが、オーナーがピアノ大好きでヴィンテージの92鍵のベーゼンドルファーが置いてあり、そこで色々な方との交流が生まれました。ジャズピアニストの山下洋輔さんも囲碁が好きで、同じ空間で僕がピアノを弾いて山下さんが囲碁を打っている、なんていうこともありました。音楽家のみなさんとたくさん知り合えたのは白龍館が大きなきっかけでしたね。最近ではピアノデュオの坂本姉妹も囲碁の有段者で、じっくり派の姉と感覚派の妹というのが、囲碁の打ち方とピアノで似ているようです。先日角野隼斗さんとAIに関する対談でご一緒した時に、私たちの開発した囲碁アプリ「囲碁であそぼ」をやってもらったら、スラスラ解かれて驚きました。
角野さんとご一緒されたのもAIということですが、大橋さんはAI囲碁の研究の先駆的存在とお聞きしています。音楽の世界でもAIとどう関わっていくかという話題が出ていますが、囲碁の世界でのAIはどのような状況になっているのでしょうか。
大きな流れとしては、初めてチェスのAIが人間のチャンピオンに勝ったのが1996年。その次に2010年を過ぎて将棋の世界に来て、囲碁はまだ先だろうと思っていたのですが、2016年にはAlphaGoというすごく強い囲碁AIが開発されて、当時世界最強と言われた韓国の棋士を負かしてしまいました。AlphaGoの開発者であるDeepMindのデミス・ハサビス氏はまさに今年のノーベル化学賞を受賞し、先日、日本棋院を訪れた時にお会いしたばかりです。ハサビスさん招致にあたり相談に乗ってくれたAlphaGoチームの友人も実はピアノが好きで、やっぱり共通項が多いと仲良くなれる気がしますね。プログラマーにとっては「どちらもキーボード」らしいです。笑
強いAI囲碁が誕生した結果何が起こったかと言うと、人間が囲碁のAIで勉強するようになって、その影響で人間のプレイヤーがすごく強くなったのです。自分も強くなりますがみんな一緒に強くなり、弱年齢化とも相まって競争がよりシビアになってきました。
もっと葛藤や抵抗があるだろうと思っていたところ、いざAIが入って来ると人々がどんどんそれを研究して使っていく、その適応の仕方に驚きますね。
そうなんです。先にAIが入ってきた将棋界を見てきたのもあって、囲碁界ではさらに受入れに柔軟だったところもあります。中国などは、AIを活用した囲碁教室も増えていて、AIトレーニング室も備えた、生徒が5000人などという教室が何校もあります。
一方で、「AIの打ち方」が主流になってきて、見ている方からワンパターンになってきたと言われるようになりました。強さという面ではAIにはかなわないかもしれないけれど、人間同士の対局の方がおもしろいと思ってもらえる要素があるのだと思います。ピアノで言うと、AIは完璧に演奏できてしまうかもしれないけれど、ちょっと間違えても人間が情感もって弾くのを聴きたい、というのと似ていると思います。他の国の方に比べて日本人棋士のAIの活用の仕方に特徴的なのは、AIを完コピするというよりも、自分の能力にあっているものをチョイスしようとしたり、AIによる強さ一辺倒よりもどこかにオリジナリティを出そうとしたりするところのように思います。
ピアノや音楽にも、AIが自動的に演奏したり作曲したりと、ちょっとずつ波が押し寄せてきていますが、今後どのような関係性になると思われますか?
音楽だとシューベルトの「未完成」の続きを作るとか、グールドの演奏を再現するとかの話もありますね。見たい人と見たくない人とが両方いるので、社会的なバランスを取るのが難しいかなと思います。
ピアノや音楽は身体性がある分、囲碁より残りやすいと思います。例えばショパンの曲を弾いている時に、身体的な快感というのがあるじゃないですか。難しいかなと思っても手にぴったりはまるというか。それもあって、自分も含め、一人で弾いていても飽きてこなかったのだと思います。
あと、音楽にはお客さんを巻き込んだライブ感みたいなのがあると思うので、やっぱりコンサートホールで聴きたいなと思うんですよね。演奏者の方もその場の反応を捉えながら弾いているから、演奏のライブ感というのはなくならないと思います。
また、外国に行った時にピアノを弾くとすぐに仲良くなれたりすごく長い間覚えていてくれたり、という人と人とをつなぎ人の輪を広げるというコミュニケーションツールの面もありますね。囲碁にしても音楽にしても、AIが出てきたことによって、前よりもよりそういう面に価値を見出すようになっていると思います。
ピアノを学んでいる方たちへメッセージをお願いします
自分にとってピアノは、やはり自分の人生をすごく豊かにしてもらっているものだなと感じています。色々なところへ行っても、ピアノを通じて人の輪が広がるのがすごくいいですね。それにやはり、手を動かすというのは、自分自身も楽しいです。大人になってそういう楽しみをたくさん見つけていますが、小さい頃にやっておくと、ちょっと間があいていても大人になって復活しやすいと思うのでいいですよね。
(2024/11/28 東音ホールにて)
ショパン:エチュードOp.10-1
昭和59年(1984年)5月25日生。東京都出身。故・菊池康郎氏(緑星囲碁学園)に師事。平成14年入段、同年二段、15年三段、18年四段、23年五段、25年六段。令和3年七段。日本棋院東京本院所属。International Society of Go Studies, 副会長。2019-2020、囲碁AIプロジェクト「GLOBIS-AQZ」テクニカルアドバイザー。経団連・21世紀政策研究所、沖縄政経懇話会等にて対談、講演。他多数。2023年入門アプリ「囲碁であそぼ」でジャーナリストクラブ賞を受賞。著書に「読むだけでおもしろさがわかる大人のための囲碁入門」(note)「よくわかる囲碁AI大全」(日本棋院)「万里一空 大橋拓文詰碁集」(マイナビ出版)他多数。
日本棋院:https://www.nihonkiin.or.jp/player/htm/ki000382.html
X:https://x.com/ohashihirofumi
文=二子千草
撮影=石田宗一郎