ピティナ調査・研究

Vol.7 大黒達也さん(脳神経科学者)

Enjoy! Piano ピアノで拡がる、豊かなミライ
Vol.7 大黒達也 さん
脳神経科学者。1986年生まれ。博士(医学)。東京大学次世代知能科学研究センター 特任講師、ケンブリッジ大学CNEセンター研究員、広島大学 脳・こころ・感性科学研究センター客員准教授。

東京大学次世代知能科学研究センターで脳神経科学を研究する大黒達也さんは、幼少期からピアノを弾き、熱心に作曲の勉強もされていながら医学の道へと進んだ異色の経歴の持ち主。「音楽とは何か」を知る、また「新しい音楽とは何か」をつかむために様々な分野でボーダレスな研究を続ける大黒さんに、現在のAIセンターでの研究内容から、これからの展望、音楽の未来についてお話を伺いました。(聞き手:福田成康専務理事)

認知科学で、新しい音楽の可能性を模索する

研究内容を教えてください

 音楽の研究をしています。人間はどのように音楽を音楽として認知しているのか、というのが研究のテーマです。とくに興味があるのは、音楽と言語の境界線、音楽と非音楽の境界線とは何か。それを研究することによって、まだ存在しない新しい音楽の可能性を模索したいと思っています。どの音楽を聴いても同じに聴こえてしまうのを、どうすれば脱却できるのか、それが人生のテーマみたいなところがあります。脱却するためには脱却できるような曲が必要です。
僕は、脳の発達とともに音楽も発達していったと考えていて、脳のモデルを使って、音楽の進化モデルを時系列で作っていくことによって、時代を通しておきてきた音楽の変化を可視化していきたい。すると、近未来の音楽の姿を計算モデル的に予測し、そして生成できるのではないか。そんなふうに考えています。

現在の取り組みは?

 モデルを使って自動作曲した楽曲を自分自身の手でも弾けるように練習しています。あと、それを何人かのプロの音楽家に楽曲を渡して弾いていただけないか働きかけています。やはり最後は人間が自身の身体を使って演奏できなければならない、というのが研究で重視している点です。それから、聴いている人の身体情報を記録して、どういうタイミングで、どういう音楽構造の時に、どのように人間の身体が反応するのか、さらに、集団で聴いている時は一人で聴いている時と比べてどのように異なるのか、という実験をしています。

作曲から音楽の奥深さを模索する

なぜ音楽を好きになったのですか?

 明確な一つのきっかけというのはあまりなくて、いろんな経験や理由からで音楽に対する思いが強くなったのだと思います。また、家にピアノがあるという環境に恵まれていたのは大きかったと思います。私の地元青森は、子供の頃は特に東京のようになんでもあるわけではなかったし、冬は家でこもっていることもあり、ピアノに触れている時間は長かったです。そういう地元の環境も恵まれていた点ですね。
最初は、見聞きした楽曲を耳で聞きながら、見よう見まねで触って確かめることから始めました。なんでこういう響きになるんだろう、というのを試行錯誤しながら弾く。ジャズの演奏に似て、耳コピすることで音楽の構造を直感的に学ぶところから始めたのも大きいと思います。コード進行はパズルのようなもので、こうするとこんな素敵な響きやメロディーになるんだな、というのが楽しくなり、その後、ちゃんと理論を学びたいとなって自分で楽典・和声学の本を開きました。
子供の頃はピアノもすごく弾いていましたが、芯にあるのは「作曲」ですね。特に、音楽の構造を知りたいというモチベーションが高いため、既存の理論に基づいた音楽をの点で言うと、作曲もするのもよいのですが、それよりもむしろ、音楽そのものを研究するほうが僕にとっては直接的な関わり方なんだなと思います。そういう意味では、作曲家になりたいと思っていた子供の頃から、やっていることは大きく変わっていないですね。

どのように音楽との関わりを深めていったのでしょう?

 改めて考えてみると、私が音楽を好きな理由って、音楽そのもの以上に音楽を通して繋がる人と人との出会いであったり、人生を通して様々起こる出来事や周りの環境変化に音楽が助けとなっているのも大きいですね。周りからの私の見え方とは違うのかもしれませんが、私は色々なことを同時に器用にできるタイプではなく、どちらかというと一つのことに「のめり込む」タイプで、そいういう意味でも子供の頃は音楽にはまっていたのですが、音楽家とか作曲家になる(そういう職業につく)というのが最終ゴールでは決してなくて、「音楽とは何か」を知る、また「新しい音楽とは何か」を知るために次に何をしようか、ということを常に考えてきました。よく周囲から「いろんなことをしている」と言われるのですが、少なくとも私は「色々なことをしたい」という気持ちでやっているのではなく、音楽を知るためにどういう経験が役に立つかというのをずっと模索しているイメージです。
本格的に作曲の勉強をしたのは、高1から高3の時期ですね。週末、地元の青森から東京まで夜行バスを使って大学の先生たちから直接学んでいました。実際、音大も受験し合格もしたのですが、このまま作曲のほうに進むのも何か違う気がして、自分が追求したい音楽から離れてしまいそうな感じを受けました。本当に、新しい音楽を作るためには、音楽家が集まる環境にいないほうがいいのではないかと思い、音大に合格してから「やっぱり行かない!」と親や作曲の先生に言いました。当時は、周りからものすごいびっくりされましたね(笑)。いわゆる不義理を働いたというか。それから、まだ出願が間に合う大学ということで医療系の方面に進みました。もちろん大学に行ってからもピアノは自分なりに続けていて、編曲の仕事なんかもしていました。

かなり試行錯誤なさっているようにお見受けします

 その当時は、(それが正しいかどうかは抜きにして当時の自分なりに)大学で学べることと独学でできることを分けて考えました。作曲や音楽の研究などは、高校3年まではみっちり学んできましたので、その知識をもとにこれから様々な楽曲に触れたり作曲してみたりと自分でできることもたくさんある。一方、それまで全く知らない分野や大学という場でないと体系的に学べないようなこととして人間の身体に関する知識が思い浮かびました。人間が音楽を奏でるということ、また人間が身体を通して音楽を享受するというのはどういうことなんだろう、ということを探るための基礎的な勉強をしたい、当時はそんなふうに親や周りの大人に説明しましたね。

音楽上、研究上の習慣はありますか?

 私自身はあまり意識したことがないのですが、おそらく周囲の人と比べて同じことを繰り返しやること、つまり「ルーティンワーク」が得意、または好きなんだなと感じています。決まった時間に決まったことをする。本当に細かいことから大きなことまで、例えば、朝起きたらAをして、朝ごはんは必ずこれを食べて、毎日同じ色の服しか着ないなどもそうです。高校の頃は朝4時に起きて2時間必ずピアノでハノンとかスケール練習をするのが習慣でした。朝こういう単調な指の運動をすると頭がスッキリして一日のパフォーマンスが上がるんですよね。  研究でいうと、単純に「書く」という行為が好きです。データや結果は少しでも良いので、それをいかに膨らませて新しいことが言えるかにエネルギーを費やすのが好きです。好きと言うより、もしかしたら凝り性とか一つのことにハマったらとことんハマるタイプなのかも。

人間が身体を使って音楽を奏でる意義とは

今後の研究の方向を教えてください

 いまは東京大学のAI(次世代知能科学)センターという機関に所属しています。それまではどちらかというと、心理学や医療系の研究機関にいました。僕の中で音楽は生きることそのもの。目指すべく目的地、つまり山頂は分野に限らず同じで、単にどこから登るかということだけです。あらゆる分野(山登りの経路)からの視点を経験することで、「あー、実は全て繋がっているんだ」ということに気がつきます。具体的には、コンピュータやAIで生成した音楽は本当に音楽といえるなのかとか、人間が身体を使って奏でる音楽にはどういう意義があるのかとというところが大切であるといったところを、引き続き研究したいですね。
この先さらに何があるか、まったく他の方向で攻める可能性はあるか、いまのところ予測できませんが、身体の音、たとえば心拍音や歩く音を対象とするのは、音楽が生まれてくる、その始まりを知るのに有効な手段なのではないかと思います。実は、医学でもコンピューターでもないところが鍵で、それは人文系の観点です。これまでデータとして記録できることしか解析していませんが、それだけでは見えないことがあると思っています。主観的体験と記録データにはギャップがある。そのギャップを埋めるため考えるのに、人文学的な視点や哲学的な手法が重要なのではないかと思っています。

ご自身の研究でできること、できないことは?

 自分が心から「やりたい」と思えればできないことはないと思っています。しかし,どんなに時間さえかければできることでも,心から「やりたい」と思うことでなければ,そこに自分の時間を費やす必要はないとも思います。例えば、AI音楽の世界も奥深く、あらゆる知識が必要ですが、私の中心課題は「音楽を知る」ことなので、AI音楽の知識・知見だけを深めるよりは、その時間に別なことをすべきだという戦略的な考えで取り組むこともあります。
ピアノに関しては、どうでしょう、最近もうちょっとピアノを練習しないとな、と少し切羽詰まっているのですけど、自分でこれいいんじゃないかと思って自動作曲で作った曲を、自分が弾きたいと思ったところまで弾けるようになる、自分の身体で演奏できる、というところが僕のピアノのできるできない、やろうと思うか思わないかの境目ですかね。

研究の到達点についてお考えを聞かせてください

 ある分野を突き詰めている人の話を理解するためには、ある程度の知識がどうしても必要になります。私が全てのことを自分の力だけで達成するのは無理でも、そういう(異分野の)人と互いに意思疎通ができる程度には知識をつけることで、そういう人たちと共同作業をしていくのが良いと思いますね。特に自分は論文として記述するのが仕事なので、芸術家などのようなある種直感的に理解している人の抽象的な表現をできるかぎり詳細に記述していく、というのが自分のすべきことのように思っています。

感情を正確に表現できるのは「音楽」

音楽と言語の共通性と違いはなんですか?

 私にとって音楽と言語はほぼ同じようなもの、と考えています。一方で、言語は境界線がはっきりしている。感情表現でも嬉しいとか悲しいとか、だれでもそれを間違いなく区別できる、効率の良い表現手段です。ただ、言語が発達したせいで、意味の刈り込みが進み、言語では表現できない空白地帯がたくさんできてしまった。例えば、「嬉しい」と「悲しい」は、言葉で言うと全く異なる感情表現ですが、感情としては実はそこには明確な境界線はなく、嬉しくも悲しくもあるような感情も存在するはずです。そのような、言葉では言い表せない感情の空間を埋める役割を音楽は持っていると思っています。本当は感情は、綺麗にカテゴライズされた「言語」より「音楽」の方が正確に表現できるのではないかと思うのです。

個性的であること・ないことについてどのようにお考えですか?

 多数派と少数派のバランスは時代や環境・文化によって違うので、単にその場の少数派の人を「個性的」と言っているだけだと思います。その時もっとも大事なのは、多数派が少数派特性を理解しようとするかどうかです。私は、多数派を少数派にするように働きかけることより(「枠にはまるな」とか「もっと個性をだせ」とか)、少数派のことを知ろうとすること、さらに自分たちが単に数の上で多数派に過ぎないんだということを知ることが必要だと思います。

 個性が突出した人には、孤独を感じたり生きづらさを感じたりと苦労も多いけれど、自分の道を進んでほしい。音楽の話に戻れば、そういう時に音楽は最大の相棒となり得ると思います。私は自分を個性的と思っていませんが(少なくとも自覚していませんが)、例えばピアノが1台あるだけで独りでいたとしても孤独を感じなくなります。自分が周囲の一般的な(?)道を進まず自分のやりたいように進んできたのは,音楽やピアノがあったからだと強く思います。

好きなピアノ曲は?

 どういう意味の「好き」かにもよりますね。ポップスもジャズもクラシックも好きですが、自分の指で演奏するものとして好きなのは練習曲です。曲と言えるかどうかは別としてハノンとかスケール練習が好きですし、楽曲としてはショパンのエチュードとか、練習曲として作られた楽曲を弾くのが好きです。たとえ音楽理論的には簡単な構造だとしても、人間の身体構造的に理にかなっているので指を痛めず弾きやすいですし、ある意味スポーツの反復練習やマラソンなどように、単純に弾いていて楽しいです。音楽構造的には、ドビュッシーの曲とかが好きですね。無調っぽかったりとか。ジャズの響きをクラシックに取り入れた時代がのものは音楽として好きです。

(2023/12/20 東京大学にて)

◆ プロフィール

脳神経科学者。1986年生まれ。博士(医学)。東京大学次世代知能科学研究センター 特任講師、広島大学 脳・こころ・感性科学研究センター客員准教授。ケンブリッジ大学CNEセンター客員研究員。オックスフォード大学、マックス・プランク研究所勤務などを経て現職。専門は音楽の脳神経科学と計算論。著書に 『モチベーション脳』(NHK出版新書)『芸術的創造は脳のどこから産まれるか?』(光文社新書)、『音楽する脳』(朝日新書)など。

聞き手=福田成康(当協会専務理事)