17. 1830年代末の練習曲 ~S.ヘラーによるエチュード批評─ショパン作品25-7
~S.ヘラーによるエチュード批評─ショパン作品25-7
前回は、ショパンが《12の練習曲》作品25を出版してほどなくS.ヘラーが書いた批評を取り上げ、第4番と第5番を旧約聖書の『創世記』の「金盃」のエピソードに見立て、タイトルの付いていない練習曲に具体的なイメージを与えていることを指摘しました。
今回は、最後にヘラーによる第7番 嬰ハ短調についての評を見てみましょう。第7番はチェロ風のソロで開始される緩徐楽章で、右手で伴奏とレガートの旋律を弾きわけつつ、左手でさらに別の独立した旋律を奏でるという、手・指の独立した機能の向上を目的とした練習曲です。
この練習曲について、ヘラーは「私の第3のお気に入りは第7番だ。(中略)私は甘美な哀歌である第7番を黙って見過ごすわけにはいかない。」とした上で、形容詞を多用してその魅力を語りだします。「それはこの上なく甘美な悲しみを生み、最も羨望に値する苦悩を生み出している。この曲を演奏しながら、どうしようもなく悲痛でメランコリッな着想へと押しやられるのを感じるなら、それはほかのいかなる気質よりも私の好む精神的傾向なのだ。」そして、ヘラーはついに、旧約聖書の比喩の余韻に浸りながらショパンに神としての格を与えます。「ああ!どれほど私はこれらの陰鬱で神秘的な夢を愛していることだろう、ショパンはこれらの夢を生み出す神なのだ!」
再び、ここで用いられる修飾語や比喩に注目しましょう。「甘美な哀歌」「甘美な悲しみ」「羨望に値する苦悩」「悲痛でメランコリックな着想」「陰鬱で神秘的な夢」―これらの情感を示す言葉は、ショパンの楽譜には一切用いられていません。楽譜中に見られる単語は冒頭に置かれたレントやクレッシェンド、デュミヌエンド、その他の強弱記号、テヌートなどのニュアンスやアクセントを示す記号で、その他はスモルツァンドが「死」を連想させますが、一般的な音楽用語の範疇にある表現であり、特別な情感を明示するものではありません。
上記3曲の批評を通してさらに興味深いのは、ヘラーがテクニック(メカニスム)上の問題についていささかも触れていない点です。約15年前までは練習課題exercicesと同一視されていたエチュードが、30年代後半に至って各曲が喚起する詩情が重視されるジャンルとなったことは、このジャンルが近代的な芸術観の枠組みにその居場所を見つけ、実用性から詩的な理想を表現するジャンルへと著しい変化を遂げたことを意味します。しかも、ショパンの例に見たように、練習曲はそれを受容する側の主観的・感性的な判断によって―たとえ標題がなくとも―ある種の感情と結び付けられて理解されるようになったのです。また、批評家兼芸術家ヘラーによる自由な想像力に基づきながらも、修辞的に一定の説得力をもつ批評・解説を通して、ショパンの練習曲はモーツァルトと、あるいは旧約聖書に結び付けられ、その美的価値が言葉によって高められながらあらたな生命を吹き込まれたのでした。そして、少数ではあったにせよ、その練習曲に命を吹き込んだ作曲者は「芸術的な神」とさえ見なされるようになったのです。かくして、30年代の末に練習曲は作曲ジャンルとして完全に独立した地位を得ることになったのです。