「最も成功したバッハ」第一回:自由ファンタジー(執筆:佐竹那月)
18世紀前半頃から、啓蒙思想が人々に理性的な思考をもたらしていた一方で、個人の内面を重視するロマン主義的な考え方も生まれ始めていました。C. Ph. E. バッハは、演奏表現において、様々な感情の移り変わりを表現することに重きを置いていました。そのことは、チャールズ・バーニー(1726〜1814)の「演奏中の氏[C. Ph. E. バッハ]は、生命力に溢れ、さらには何かが憑依しているようですらあった」※1という回想からも示唆されます。
そんな独創の天才 C. Ph. E. バッハの真骨頂と言えるのが、クラヴィーアでの即興演奏、つまり「自由ファンタジー」です。「自由ファンタジー」は、規則的な拍節から解放されていること、つまり小節線をもたないことを大きな特徴とし、規模の大きなファンタジーでは、様々な調へ自由に転調し、夢幻的な情感を醸し出します。【譜例1】は、C. Ph. E. バッハが初めて出版した「自由ファンタジー」です。この種のファンタジーが記譜される場合には、【譜例1】のように冒頭に便宜上4/4拍子と書かれますが、拍節はありません。『試論』第1部の記述によると、クラヴィーア奏者はファンタジーによって、感情の変化を自在に表現し、「器楽におけるレチタティーヴォ」を実現できるといいます。
C. Ph. E. バッハのファンタジアにおいてはふつう、速度表記が頻繁に交替し、長い曲であればあるほど、拍節に基づく箇所も出てくることがあります。【譜例2】は同じ作品の中盤、Allegro moderatoからLargoに変わる部分です。Largoが始まるとようやく一時的に安定した3/4拍子・変ホ長調が現れますが、変ホ長調に至るまでに、カデンツの唐突な中断や半音階的技法、fとpの交替など、様々な手法が組み合わされながら転調していきます。「自由ファンタジー」ではこうした思いがけない転調が行われ、それは聴衆を驚かせるスパイスになっています。ただし、C. Ph. E. バッハは『試論』第2部で、このような突飛な表現をあまりに頻繫に行うことなく、あくまで理性的に用いるように忠告しています。
最後に、筆者おすすめの名盤、アーポ・ハッキネン Aapo Häkkinen のクラヴィコードとフォルテピアノによる演奏「C.P.E.バッハ:ファンタジア集」(2023)をご紹介します。C. Ph. E. バッハは、クラヴィコードとフォルテピアノこそがファンタジーに相応しい楽器だと述べています。ハッキネンの演奏ではその言葉通り、豊かな音色の変化が明瞭に聞こえ、即興演奏をその場で聴いているかのような、生き生きとした臨場感を味わうことができます。
Bach, Carl Philipp Emanuel. 2005. “Sonata VI.” In “Probestücke,” “Leichte” and “Damen” Sonatas, edited by David Schulenberg. Carl Philipp Emanuel Bach: The Complete Works, ser. I/3, 33-34. Los Altos, California: The Packard Humanities Institute.
はじめに | 連載第2回(準備中)
- チャールズ・バーニー『チャールズ・バーニー音楽見聞録〈ドイツ篇〉』 小宮正安訳、東京:春秋社、2020年、411頁。