ピティナ調査・研究

研究活動報告『澤田柳吉 日本初のショパン弾き』第1回 多田純一先生(ピティナ研究会員)

◆ 研究活動報告
『澤田柳吉 日本初のショパン弾き』第1回

ピティナ研究会員 多田純一

1. 「今」こそ歴史を振り返りたい

近年、日本人ピアニストが国際コンクールで上位入賞を果たし、クラシック音楽の世界はこれまでにない盛り上がりを見せています。話題になっているピアニストのチケットが即日完売するという状況は、1980年代のバブル景気以来の現象だと思われます。このようなクラシック音楽がホットな「今」でこそ、日本の西洋音楽受容、そしてピアニストの歴史を振り返る時でもあると言えるのではないでしょうか。
この度、明治後期から昭和初期にかけて活躍したピアニストである澤田柳吉(1886-1936)の人物伝『澤田柳吉 日本初のショパン弾き』を上梓する機会をいただきました。(春秋社、2023年8月)。これまでもピティナのウェブサイトでは、たびたび澤田柳吉について紹介されてきました※参考リンク※参考リンク。この研究活動報告では、全3回の連載という形で彼の音楽活動について紹介しつつ、ピアノ研究家・ピアニストである松原聡氏による解説と共に進めていきたいと思います。

図1 澤田柳吉
2. 「ショパン弾き」として名声を高めた澤田柳吉

日本人の「ショパン弾き」は中村紘子さんがその代表的な存在でしたが、明治期から「ショパン弾き」と呼ばれたピアニストが存在し、その最初の呼称を得たのが澤田柳吉です。明治中期からショパンの作品が演奏されていくようになりますが、当初はピアノ以外の楽器、特にオルガンやヴァイオリンのために編曲された作品の演奏記録が多く見られます。
ピアノの演奏技術が徐々に高まり、明治40年頃からピアノ独奏による演奏が増加し、この時期と澤田がピアニストとして活動し始める時期が一致します。彼は明治39年に東京音楽学校本科器楽部を卒業しました。澤田が最初にショパンの作品を演奏した記録は、明治39年1月に行われた「東京音楽院芙蓉会第二回例会」に見られます。東京音楽学校在学中のことですが、来賓としてショパン作曲《ワルツ》(作品番号不明)を演奏しました(図2の左端)。

図2 東京音楽院芙蓉会第二回例会の記事(雑誌『音楽』第9巻第4号)

東京音楽学校研究科に進学した澤田は、活発に演奏活動を行います。彼が最初に高い評価を得たのは、《華麗なる大円舞曲》Op.18の演奏でした。続いて《ノクターン》Op.27 No.2などレパートリーを増やし、明治41年から演奏しはじめる《幻想即興曲》Op.66で「ショパン弾き」としての名声を確実なものにしました。

3. 日本人として最初にピアノ独奏会を開催

明治期の演奏会は、複数のピアニストによるジョイント・コンサートが一般的でした。そういった状況の中、日本国内でも独奏会が目指されます。華族を中心とする知識人が音楽奨励会を設立し、演奏家を支援しました。
明治44年12月の「音楽奨励会第7回演奏会」では清水金太郎(1889-1932)によって声楽独唱会が行われましたが、澤田はこの演奏会で伴奏を務めると共にベートーヴェン作曲《ピアノ・ソナタ》Op.27 No.2「月光」全楽章を演奏しています。明治45年1月の「音楽奨励会第八回演奏会」は窪兼雅(1891-1939)によるヴァイオリン独奏を中心とする演奏会でしたが、ここでも澤田は伴奏を務め、小倉末(1891-1944)が複数の作品をピアノ演奏しているため、まだ独奏会は成立していません。
同年2月22日、華族会館にて行われた音楽奨励会第9回演奏会は「ショパン誕生記念演奏会」と題され、澤田によってオール・ショパン・プログラムでピアノ独奏会が実現しました。こんにち一般的に行われるピアノ・リサイタルは明治末期に成立したのです。

解説「明治末期のクラシックの音楽会と演奏会場について①」

ピティナ正会員 松原聡

日本で最初のピアニストの一人、澤田柳吉が音楽界に登場した明治末期、クラシックのコンサートがどんな会場で開催されたかについて紐解いてみたいと思います。公称、日本最初のコンサートホールと言われるのが東京音楽学校の奏楽堂であり、黎明期だった明治期のクラシックの音楽会は、ほぼここが拠点であったと言えましょう。

図3 旧東京音楽学校奏楽堂(大正時代)

そして明治末期に至って、ようやく本格的な演奏会場が次々とオープンします。明治41(1908)年開場の日本初の全席椅子席の西洋式劇場と言われる有楽座と、明治44(1911)年 開場の帝国劇場です。皇居から程近いこの2つの会場は、純粋にヨーロッパの劇場建築に忠実に則っとり、現在に至るまでで最も本場の劇場に近いものであったと筆者は考えています。この2つの劇場は演劇や歌舞伎、オペラまで多目的な上演を行っていましたが、確りと劇場の経営が成り立ち、音楽・演劇双方に大きな足跡を残した点で、文化への貢献は極めて大きなものがあります。
ただ、惜しむらくは丸1世紀前の大正12(1923)年9月1日の関東大震災で何れも焼失してしまいます。有楽座は再建されず、帝国劇場は再建されたものの、震災前より簡略化されたのが写真から判ります。日本で本場とほぼ同等の劇場を有した時代は、僅か15年程でしたが、その間に現在に繋がる世界的な演奏家の来日公演が始まった事は、日本の音楽史にとって重要な事柄です。

図4 開館当時の帝国劇場内部(初代)  
図5 大正期の有楽座内部

本題の澤田柳吉に戻りますが、明治45(1912)年2月22日、「ショパン誕生記念演奏会」が開催された華族会館とはどんな場所だったのでしょうか?調べると、華族会館とは華族の親睦団体で、明治45年当時は旧鹿鳴館の建物だった事が判ります。鹿鳴館が明治16(1883)年の落成で、明治23(1890)年に宮内省の払い下げを経て明治27(1894)年に華族会館に払い下げられています。そして、どの部屋でリサイタルを行ったのか?ここに興味深い写真があります。2階の一室でしょうか?2間続きの大きなサロンそのもので、空間の右端にグランドピアノが写っており、恐らくざっと100名前後は収容できたと思われ、もしやこのグランドピアノが使用されたのでは?と筆者は考えています。

図6 華族会館 サロン内部
参考資料
  • 「音楽五十年史(上)」 堀内敬三著 講談社学術文庫138
  • 「東京風景」 小川一真出版部 明治44年4月 (国立国会図書館デジタルコレクションより)