ショパン国際コンクール(38)深い探求とは?〜ショパンからバイエルへの研究応用例
ショパンコンクール後日編として、5回にわたり「自分で答えを探すために〜演奏の創造へ」を書きましたが、これはもちろんこのコンクールに限った話ではありません。たとえば現在開催中のエリザベート王妃国際コンクールでは、日本の今田篤さん・岡田奏さんを含むファイナリスト12名が、1週間かけて自力で新曲課題曲("A Butterfly's Dream", Claude Ledoux)に取り組んでいます。ライブ配信&アーカイブ映像はこちらへ!このような課題では、自らの視点で物事を見て、深く探求していく力が問われます。まさにアーティストに必要な力ですね。(参考:2013年度リポート)
では物事を深く探究するにはどうしたらいいのか、今回は研究者の視点から考えてみたいと思います。ショパン研究者の多田純一さんに、最近取り組んだバイエル原典研究についてお伺いしました(『バイエル原典探訪』音楽之友社)。
すべては好奇心から!〜初版と自筆譜から探るバイエル本来の姿
多田さんは長年ショパン研究をされていますが、この度バイエルの原典を研究しようと思ったきっかけを教えて下さい。
かつて短期大学でピアノを教えはじめた頃、大学生がなかなかバイエルの指使いを守らないという状況に直面していました。それはよい意味で自分にとって弾きやすい指使いを考えているというということなのですが、一方で、指使いを守らないことで自然な演奏が出来なくなってしまう(例えばスケールの音型の箇所で音楽の流れが変わるなど)こともしばしばありました。ピアノの初心者がそのことの重要性に気付かないことが多いのは言うまでもありません。当時ショパンの指使い研究をしていた私は、指使いによって音楽が変わるほど大事なものと考えていました。そこで、バイエル本来の指使いはどうなっているのか、まずはバイエル初版と今出版されている版に違いがあるのかを研究することにしました。ちょうどその前年、安田寛先生によるバイエル初版に関する記事(ムジカノーヴァ2006年9月号特集『バイエル&ブルグミュラーの冒険』/安田寛先生・ヘルマン・ゴチェフスキ先生)を読んだこともきっかけになっています。
調査を始めるにあたり、まず初版の現物をドイツの古書サイトで見つけて購入しました。それが本物であることを確認するため、ショット社に問い合わせたところ、「同じプレートナンバーが自社カタログにメモ書きされていた」との回答がありました。出版社のみが知っている未公表のプレートナンバーが記されていること、また記載されている価格(3フローリン36クロイツァー)が初版時のものと一致すること、この2点をもって本物の初版であることが確実になりました。
しかしそれが初版の何刷目に位置付けられるのかは、すべての情報を精査しなければわかりません。また第1刷のみを初版というのか、同じプレート番号を引き継ぐのが初版なのか、これも研究によって見解が違います。
その頃、安田寛先生もバイエル初版研究をされていて(参照『バイエルの謎』)、3フローリン36クロイツァーの価格が記載されている初版第1刷を探していらっしゃいました。安田先生所蔵の初版には価格が書かれておらず、女の子の絵がグランドピアノではなくアップライトピアノであること、また出版社の支店数が増えていること(2刷)、出版社数は同じだがオランダの代理店のハンコが押されていること(3刷)などから、自分が所有する版よりも後のものだと判明しました。つまり、自分が入手した版が最も古い第1刷そのもの、あるいはそれに近い版であることがわかってきたのです。
原典を求めて〜自筆譜を求めた旅
ー初版第2刷以降はイェール大図書館やウィーン国立図書館所蔵となっていますね。いかに多田さん所蔵楽譜が貴重なものであるかがわかります。さらに自筆譜の研究もされていますが、この経緯も教えて頂けますか?
その頃『バイエル原典探訪』共著者である小野亮祐さんは、ドイツの教則本作曲家レーラインの博士論文を書いていく中で、バイエルの研究もされていました。そこで彼が独マインツのショット社を訪れたところ、なんと今まで無いと言われていた自筆譜が出てきたのです!ショット社創業200周年で論文資料を整理していたところでした。半年後、その自筆譜を精査するために、初版を熟知している人が一緒にいた方がいいということで私を自筆譜調査に誘ってくださり、一緒にマインツを訪れました。初めて自筆譜に触れた時は感動しました!私たち以外には誰も触ったことがない資料を、初めて具体的に見たわけです。それから丸3日間資料室にとじこもり、自筆譜と初版譜の全曲・全小節を一つ一つ比較し、違いが確認できた箇所すべてを手で書き写しました(全部で144箇所)。
一次資料の重要性〜譜面が違えば、解釈も教え方も変わる
スラーや記号、指使いだけでなく、挿絵や小節線の長さに至るまで、実に細かい確認作業の積み重ねですね。自筆譜、初版、現在出ている版には、具体的にどのような違いが認められましたか?
自筆譜と初版譜が違う場合もありますし、初版同士の違いもあります。また日本人が100年以上前から使ってきたペータース版も、初版と異なるスラーや記号などがたくさんあります。
スラーを例に挙げましょう。本書ではスラーを3種類に分けており、古典派のような小節区切りのスラー、ロマン派のようなフレージングスラー、弦楽器の奏法に従ってひと弓で弾く分が指示されるボウイングスラーがあります。古典派からロマン派に移行していく時代の中で、バイエル教則本は、先生用伴奏パートを見ればロマン派作品であることが分かりますが、スラーのかけ方は古典派に倣っています(同時代のショパン作品には古典派とロマン派のスラーが混在)。
たとえば第97番で「最終小節でスラーが一瞬緩むか緩まないか」に着目すると、自筆譜、初版、ペータース版でそれぞれ異なります。自筆譜では最初から最後までスラーのかけ方が一貫しています。ペータース版はこの曲を含め、完全にフレージングスラーになっていますね。こうしたスラーひとつで曲全体の解釈が変わってくるのです。
また音楽的な意図より教育的な意図でつけるスラーもあります。たとえば第1番ではレガートスラーとボウイングスラーが混在していますが、先生が弾く伴奏パートの旋律を聞きながら一緒に弾く、という意図があります。導入期のピアノ教本としてスラーが巧妙に使い分けられているので、指導者の方もそれをきちんと理解して頂くことが大事ですね。
知識の転用〜ショパン研究で得た知恵をバイエル研究に
音楽解釈を掘り下げていくには探究心が必要ですので、これから演奏家や指導者にも研究者のような姿勢が求められると思います。一言アドバイスがあればお願いします。
まず「本来の形とは何か?」 という問いかけを持つようにして頂きたいです。私はショパン研究で得た知恵や手法を、今回のバイエル研究に応用しました。モーツァルトやベートーヴェン等は研究され尽くしていますが、バイエルでは自分自身で一つ一つ掘り起こしていく作業ができました。最初は雲をつかむような感じでしたが、研究者3名がそれぞれの立場で集めた情報を持ち寄ってみることで点と点がつながり、だんだん全貌が見えてきました。すべては好奇心から始まったことで、ピアノであれば「どの作曲家に興味を持つか」と同じだと思います。
ところで、マインツ訪問直前にパリ国立図書館にも立ち寄りました。ショパンに関する博士論文(『明治期の日本におけるショパン像の形成』)で使った資料が、どのように保管されているのかを見てみたかったのです。その時「ショパン」資料集の中に、第7番ワルツの自筆譜を見つけました。初めてショパンの自筆譜を手で触れることができ、心が温まる思いがしました。その足でマインツにいき、今度はバイエルの自筆譜に触れたわけです。まさに宝物を探し回るような経験でした。
このように、思わぬきっかけで思わぬことに興味を持ち掘り下げていくと、とんでもない宝物のような資料との出会いがあり、新たな発見に遭遇することが研究の醍醐味です。ピアノ演奏と研究はまるで別のことのように考えられがちですが、それではせっかく見つかった宝物に何の価値も見いだせないことになってしまいます。ピアノ演奏やピアノ教育が研究と今後さらに密接に結びついていくことを願います。
◎ 著書情報
- 『バイエル原典探訪〜知られざる初版譜の諸相』(小野 亮祐 (著), 多田 純一 (著), 長尾 智絵 (著), 安田 寛 (監修)、音楽之友社・2016年)
◎ 参考記事