ピティナ調査・研究

連載:第13回 ブルグミュラーに立ち返る~湯口美和先生インタビュー

みんなのブルグミュラー

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「易しさ」と「楽しむ」ことの真意

湯口先生が大学卒業後に留学していたドイツから帰国し、受験生や学生を対象にレッスンを始められると、多くの生徒がショパンやベートーヴェンの大曲を持ってやってきた。ところが一生懸命ではあるけれど 感情や感性のほとばしるような生き生きとした演奏というより 無表情に近いお行儀のよい演奏だったり、音も表情も硬く、ただガンガン弾きまくっているように思えるような演奏をする人が多かった。「どう弾きたいの?」と尋ねても、「なぜそんなことをお聞きになるんですか?」といった表情を浮かべる生徒も。
「生徒が音楽的キャパシティーや欲求を持つ以前に大曲を扱うことに疑問を感じたわね。『弾くこと』に四苦八苦することで終わらせないために、思いっきり簡単な曲でもっと余裕を感じさせたい、音楽の美しさを知ってほしいと思いました。」

そう思われた理由は、ご自身の体験の中に。
湯口先生は学生時代、試験曲などを練習しているとき、練習に疲れると気分転換にする遊びが「ソナチネアルバム」や昔弾いた易しい曲を開くこと。
「その程度の曲なら、かなり自由に思い通り、好きな表情付けで弾けるでしょ。ちょっと極端に味付けしてみたり・・・それは楽しいわよね。」

「演奏する」という言葉は、例えば英語 play やフランス語 jouer では「遊ぶ」という語と同語。本来「楽しむこと」は「演奏すること」と切り離されてはならないエッセンス。充実した深い「楽しみ」は実はさほど容易に体験できることではないだろう、しかし「楽しむ」なかで、私たちはある種の発見に出会うことができるのだと先生は言う。

「実は音の出し方、身体の使い方なども作品の姿をきちんと把握できると自然と身につくもの。自分が音楽をかみくだき、『こう弾きたい』という感覚を自覚する前にどんどん難しい曲ばかり追っかけることに必死になってしまった生徒に、私はブルグミュラーやツェルニー30番などを楽しく美しく弾くことに立ち戻させるのです。易しい曲だからできること。ピアノを始めた頃、どうやら弾けたという程度だったブルグミュラーも数年経ったらいろいろなことを読み取って充分に美しく弾くことが出来、小さな達成感も持てるでしょう。こんな簡単な曲、何で弾かされるの、って思う人もいるでしょう。でもブルグミュラーがきれいに弾けない人にショパンのノクターンを美しく弾くことは容易ではないし、ツェルニー30番を完璧にこなせたら、ショパンのエチュードは絶対に弾ける。初歩からきちんと本当の譜読みのノウハウ、音楽する心を積み重ねていけば 難解に思える曲も必ず作品の全体像が見えてくるようになると思うの。それが、単に音を並べる演奏のレベルから、本当の『作品の素晴らしさを知る』レベルになることの違い。どんなものでも、生かすも殺すもその人の利用の仕方次第です。」

*湯口先生にお話を伺いたかった私の理由*
個人的な話になりますが、筆者は藝大の楽理科在籍時代、副科ピアノのレッスンで湯口美和先生に師事しておりました。当時から先生の迫力ある存在感に、心地よい緊張感を覚えていましたし、いわゆる手取り足取りのレッスンとは違って、お話が中心で観念的ともいえるユニークな教授法に私自身夢中になり、毎週バッハ、ラヴェル、ブラームスと、数多くの曲を持っていきました。そんなレッスンの3年目を迎えた頃、先生があるとき突然「きちんとやる気があるのなら、ブルグミュラーから付き合うわよ」とおっしゃいました。驚いた私ですが、大曲を弾くことを一端やめ、あの懐かしい25曲の中から、何を選ぶか楽しい時を過ごした記憶があります。翌週から「やさしい花」を弾くことにしました。そこであらためて私は、何を身につけ何を整理できたのか。あの数週間、ブルグミュラーを弾いたことで、当時は何か自分にとって大切な分岐点となったことは感じたものの、「なぜ突然ブルグミュラーだったのか」。そうした問いは、その後もいとおしむように私の中で反芻されてきました。卒業後、約10年の時を経て先生と再会し、お話を伺うことができました。
感覚から認識へ~図柄としての楽譜を読む

リセットする感覚とでもいおうか。あれもこれもと大曲に手を出すことで、くずれてしまったバランス、音楽を丁寧にとらえ表現することのバランスを取り戻させるべく、湯口先生は大学の副科レッスンで私をブルグミュラーに立ち返らせて下さったのだ。今ここで明確になった気がした。当時使用した私の楽譜には、レッスンでの先生の言葉、「1考える、2聴く、3判断する、4工夫する」というメモがあった。
「『こう弾きたい』という感覚、なぜその感覚が湧き上がるのかを考えて、次にその感覚を認識へともっていくこと。」
感覚から認識へ、考えて工夫していく過程。そこには譜読みという作業が浮かび上がる。

「まず楽譜を開いたときにパッととびこむのは、図柄。音符の動きです。この絵柄としての楽譜から、受け止められることが沢山あるはず。」
音符の長さ、音形の上行・下行、加線や付点など・・・。楽譜を開いた時に見えるそうした絵柄を丹念に追っていくことで、静かな曲なのか、元気な曲なのか、楽曲のイメージがわく。それが「どう弾きたいか」の出発点ともなる。
人間の持っている自然な感性に目を向け、細やかに観察し、さらにそれを楽譜と照らし合わせること。ブルグミュラーの場合、そこに標題も加わり、「悲しみ」「慈しむような優しい気持ち」といったようなイメージも付加することができる。平面である楽譜をどこまで立体に、生きた音の世界に高めて行かれるかは、演奏家、音楽家に任されているのだと言う。

音楽家の到達点

「どう弾きたいか」が演奏家の出発点であるとしても、ピアニスト湯口美和が最後に語ったことは「どう弾くか」を突き抜けた、あるひとつの到達点。
「演奏するということは ちっぽけな自我を開放し、作品が示唆しているその姿、精神、感情に楽譜を通して導かれ、敬愛の念を持ってそれに従うことだと・・。そして単なる譜読みに留まらず、ひたすら自分の全身を耳にして、心に訴えかけてくる様々な暗示を受け止め、それを聞き手に届けるために全身全霊で作品に奉仕すること。勿論自分というフィルターはどうしてもかかる。それでも、ひたすら自分を無にして全力投球でその存在に奉仕することに徹底するよう努力すること、それが私の自分への願いでもあるのです。」
「自分が」から「音楽が」への主体転換。インタビューの最後は湯口節とも呼びたい先生特有の迫力あるお話を伺うことができました。
ありがとうございました。

※お知らせ※
「演奏は人それぞれに無限の形がある。楽譜から読み取った基本的な認識と、個人的な味付けとは決して相反するものではない。」そうした先生のお考えをベースに、湯口先生は現在、大人やレスナーのためのグループレッスンの実現に向けて尽力されています。とりあげる作品の一つとして、ブルグミュラーをお考えとのことです。このレッスンの模様はホームページや会報などでお知らせしたいと考えております。どうぞお楽しみに!

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