連載:第02回 第60回ブルクミュラーコンテスト
ブルグミュラーの名を冠したコンテストが存在していた。場所は京都、市役所前に位置するプロアルテホール。2006年3月26日、なんと60回目(!)を迎えたという「ブルクミュラーコンテスト」へ取材に出かけた。
「ピアニストの登竜門的なコンクールとは異なり、子供たちが、いかにピアノの音を大切に弾くか、音楽をどう表現するか等、自分なりにみつめるきっかけづくり」。これは本コンテストのパンフレット冒頭の文面だが、会場内のアナウンスでも繰り返し司会者によって述べられていた。参加者はごく普通にピアノのお稽古にいそしむ子供たち。発表会よりも少し緊張して舞台に上がる。
ユニークなのは演奏が終わるたび舞台上で一人ずつ、参加者が講評員の先生からアドバイスを受けること。それはときに厳しいこともあるが、実に丁寧で愛情に満ちている。今回の講評員は、島崎清(京都女子大学名誉教授)、田中美鈴(青山音楽財団理事)、田代 晶子(京都市立音楽高校講師)、西谷玲子(京都音楽院講師)の4名の先生。
対象年齢は小学校6年生以下。多くは京都在住だが他県からのエントリもあるそうだ。今回の出身地やレベル別課題曲は資料のとおり。
レベルIでは「すなおな心」、IIでは「ちょっとした悲しみ」、IIIでは「乗馬」を課題曲に選んだ子供がもっとも多い。
途中でつかえてしまう子から、音楽的に歌い楽しむレベルに達している子まで様々だ。その中でとても興味深く思われたのは、そのような「普通の子供たち」の集中力だ。演奏中はもちろん、審査員からのアドヴァイスを受けるとき(舞台上で3分くらいは客席に向かって立つことになる)、彼らの顔には安堵感、緊張感、達成感が 複雑に入り混じったような、まじめないい表情が出る。学校生活や家庭生活では得られないこうした体験が、子供の心の引き出しをひとつ増やすことになるだろう。
4名の先生方による丁寧な講評は感動的だ。強弱やフレージングなどの細かな指導から、ピアノや音楽との付き合い方まで、個々の参加者に応じた幅広い内容だ。一人につき3?4分のアドバイス。演奏が途中で失敗してしょんぼりした参加者も、講評員からの暖かく適切なアドヴァイスを聞き、元気よくステージを後にする。どんな子供に対してもピアノを弾くことに希望をもたせる。
以下は各先生からの印象的な言葉。
島崎:「自分の出している音に責任をもってね。いい加減さをのこさぬように。」
田中:「暗譜は覚える意思、頭の中の写真、自然な流れ、この3つが合わさってできるのですよ。」
田代:「楽譜を机の上に置いて、音を出さない勉強もしましょう。どんな風にこの音楽をつくるか、まずは鉛筆を持って自分ひとりで作戦会議を開くのです。」
西谷:「高音の弦は細いので、どうしても音が小さくなっていきます。あなたの上等な耳でそれを聴きわけてね。」
どの先生も強調していたのは、楽譜(各種の記号など)をきちんと丁寧に読み込むこと、そして「うたう」ことの大切さだ。先生方から次々と発せられるの言葉の数々は、人が音楽と向き合おうとするときに基礎として忘れてはならないことばかり。充実した講評を聞くだけでもこのコンテストの意味は大きい
コンテスト開始前の控え室で、各先生にお話を伺うことができた。
田中:標題がついていることを生かした音楽作りが可能。ブルグミュラーは感性を磨く材料として適切。
島崎:趣味でピアノを続けようと思う人は、大曲ではなく、こうした小さな作品で楽しく音楽性を養うことができる。
田代:日ごろから生活の中で感動することを大切に。自然の観察や光景などに関心をよせ、自分のイメージ力を高めておくこと。標題のついた音楽に景色をもたせる演奏を。
西谷:子供には子供にしかできない、大人には大人にしかできない表現があるはず。ブルグミュラーと通じて「うたう」ことを大切にしてほしい。
午前9時半から開始して午後8時まで。実に10時間近くにわたるコンテストのすべてを取材した。あらためて実感したのは、「25の練習曲」はきわめて要求度の高い曲集であるということだ。
実際のところ今回コンテストに参加した子供たちのなかに「天才キッズ」はいない。みんなピアノのお稽古が好きで、ピアノを弾くことが日常の生活の中にあるけども、とくべつピアノで何かを誇示したりしようとはしていない子供たちだ。 そうした彼らにとって、音符や記号、楽曲用語などを丹念に読み取ること、そしてそこから一段上にある「うたう」ことがどれだけ難しいことか。率直にいって今回の参加者で作品を完全に弾きこなしていた子はほとんどいなかった。だがしかし、一人一人の演奏する姿のなかには教わったことをきちんと実践しようとするひたむきさ、舞台上でたった一人でがんばるまじめさがあった。
ブルグミュラーはどこまでも要求する。丁寧に音楽作りをしようと思えば、限りなく課題を与えてくれる。だからこそ、どこまでも、「みんなの」ブルグミュラーなのだ。「25の練習曲」は生活の中の音楽、音楽としての生活そのもの。今回の取材を通じ、そんなことを改めて実感した。