金澤希伊子 第3回 道を究める─ピアノを学び続ける─
道を究める─ピアノを学び続ける─
金澤は東京音楽学校の研究科を修了した後に渡仏し、ラザール・レヴィに師事した。レヴィは、アントワーヌ・マルモンテル、ルイ・ディエメ直系の演奏家であり、アカデミックなピアノ教育で影響力を持った教育者でもある。パリ高等音楽院で長年教鞭を執り、門下からショパンコンクール優勝のアレクサンダー・ウニンスキーや、ヨーロッパで絶大な人気を誇ったクララ・ハスキルらを輩出した。安川加壽子の他に日本人では原智恵子や野辺地瓜丸らが師事し、戦後には、金澤に続いて井上二葉ら安川門下生がフランスへ渡り指導を仰いだ。
レヴィは、演奏家が過剰に個性を表現することを嫌い、楽譜と演奏者の間に何も介在させず、楽譜に忠実であることに重きを置いた。パブロ・カザルスの言葉を引用してこのように話している。(下線は筆者による)
現在において比類無き最高の音樂家パブロ・カザルスが絶えず主張してやまなかつたことは、演奏家にとつて第一の節操は、自我、個性を忘れることである。これは個性が排撃すべきものだというのではなくて、個性は巧まずに無意識に表現される時以外は、眞の價値は見出されないということを云いたいのであります。脚注1
その考え方からレヴィの演奏は「新即物主義」、つまり「19世紀的ロマン主義に裏付けられた主観的、恣意的な演奏様式に対する反動として、主観を排した作品に忠実な演奏様式」脚注2に属すると評された。評論家の吉田秀和は、レヴィの"楽譜に忠実である"という言葉の真意を掘り下げて、単に「無表情で平坦で機械的な正確さを尊ぶ」ということではなく「楽譜を詳細に、精密に研究することである」と説いている脚注3。
レヴィは実際、熱心な研究家で、長年にわたり演奏法を研究していた。彼が30代にさしかかった頃、エラール・ピアノの会社の一室を借り切り徹底的に自らの演奏法に対する疑問を解決することに没頭した。以来20年をかけて「いかにして楽な姿勢、楽な運動で最も効果をだすか」を研究し、独自の奏法理論を編み出した脚注4。安川によるとレヴィの指導は「困難なところはもっとも自然な方法で、しかも合理的な指使い、あるいは腕・手の運動によってその箇所を克服する」という方法だったという脚注5。金澤はレヴィの指導をこう振り返る。
指使いにとっても厳しい先生でした。レヴィ先生は、5本の指の長さがあまり違わないのですよ。殆ど同じくらいで。ピアノを弾くにはとてもいい指なんですよ。私共日本人の女は手が小さいでしょ。そうすると、それ用の指使いを考えてくださいましたね、随分と克明に脚注6。
レヴィから金澤に与えられる課題は、ほとんどがベートーヴェンだった。ショパンのエチュードを一通り弾いたとはいうものの、振り返るとあまりフランス作品を弾かなかったという。「フランスの作品は、帰ってから安川先生と勉強しようと思っていました」と金澤が話すのは、課題にフランス作品が少なかったという理由以外に、留学間もない時期のとある出来事があったからだった。
レッスンでラヴェルを弾いた時のこと。レヴィ先生はその時何もおっしゃらなかったのですが、後日、母から「安川先生のところにレヴィ先生からお手紙が来て『これなら日本に留学した方がいい』と褒めてあった」と聞かされました。これは、安川先生へのお褒めの言葉だったと思います。
そしてその言葉は、金澤には帰国後にラヴェルを究めるきっかけにもなった。
2年の留学の終わりが近づいた頃、レヴィが安川から依頼を受け、金澤の帰国リサイタルのプログラムを作成してくれた。
バッハ以前の作品も多く、それにバッハ、ベートーヴェン、ショパンと定番が続いてフランス近代作品と邦人作品も入っていました。それを見た安川先生が「コンサート2つ分はあるわね」と仰るほど、内容の濃いプログラムでした。
その帰国コンサートのプログラムに加えて、レヴィからは「今後も邦人作品を必ず弾くように、そしてなるべく人の弾かないような曲を弾きなさい」とアドバイスを受け、大きな宿題を携えて金澤はフランスを後にした。
帰国後、安川に演奏を聴いてもらうと、うれしいことに「フランスに行くとこんなにも上手になるものかしら」と努力を称えてくれた。さあ、これから帰国リサイタルに向けて準備に取りかかろう、というところで、井口基成の計らいもあり桐朋学園大学で教える機会に恵まれた。レッスンに時間を割くようになった一方で、帰国リサイタルに向けて準備時間を十分にとることができず時間のやりくりに苦労したという。
桐朋は、"どんな生徒も見捨てない"という井口先生の考えを受け継いでいますから、調子の上がらない生徒を引っ張り上げないといけません。やはり指導するとなると、一生懸命やりますからね。しかも母が、"来たるものは拒まず"という考えでしたから。「人は大事だから絶対に断ってはいけない」とよく言っていました。
帰国コンサートは成功を収め、演奏活動の道筋をつける大きな一歩となった。
恩師の井口とは桐朋で共に指導する立場となった。
井口先生の演奏は叙情性と情熱ですね。当時としては最高のところまで到達された。ただピアノを始められたのが遅かったので、「小さい頃から音楽を始めていれば、今が自分に困難だと感じていることは易しく感じるだろう」とお考えになって「子供のための音楽教室」を創設された。
そして井口先生と言えば、テクニックですね。テクニックは音楽を表現するために必ず必要なものです。例えばハノンの練習法としても少し上から打鍵することも間違っているとは思いません、曲の中でそう弾くこともありますから。つまり使い方次第だと思います。
井口の仕事の代名詞でもある春秋社版については、自ら楽譜を出版に携わり、初めてその苦労を知ったという。金澤は、1980年にバッハ研究の第一人者である角倉一朗が編纂したバッハのインヴェンションに、指使いと奏法解釈を執筆した。「出版するのは大変なことです。井口先生の春秋社版はそれより30年前に出されていて、(自分の出版後に春秋社版を見て)素晴らしい内容だと思いました。現在でも遜色ないですね。装飾音は相当に研究されています」。他に金澤が携わった楽譜には『メトードローズ』(特に幼児用)もある。『メトードローズ』は、ピアノの教則本と言えば『バイエル』一辺倒だった日本に安川加壽子がフランスから持ち込んだ教則本で、現在でも広く使用されている。金澤が特に携わった幼児用は、幼い子が見やすいようにおたまじゃくしが大きく工夫してある。
メトードローズは、一つずつのテクニックを教えるようになっていて、一度に二つのことが出てこないのです。急に難しくなったり、突然違うことがでてきたりすると教える方が難しいですけれど、その点メトードローズはごく自然な流れになっていて、子供が習得しやすくてとてもいいですね。
帰国後しばらしくて、安川加壽子の指導を受けるべく、作曲家の池内友次郎の芳枝夫人(日本大学声楽科教授)から頼まれた生徒に多 美智子がいる。小学5年から受け持ち、受験の時期は特に一生懸命指導したという。多は東京藝術大学在学中に日本音楽コンクールで優勝を果たし、安川と金澤の指導が実を結んだ。(多 美智子 第4回「日本に舞い降りたフランス音楽の使者」より)
金澤は、ピアノの指導についてこのように語る。
最初は、自分(指導者)が思っているようにやらせようとするでしょう。カードが一枚なわけですよ。それではカードが足りないわけです。いろんなキャラクターの人がいることを見抜くのは、ある程度の経験を積まないといけませんね。生徒の駄目なところを指摘して教えるのは楽ですけれど、隠れた良さを見抜くのが難しい。ゆっくり成長するっていう人の良さってなかなか出てこないですね。けれど、ゆっくりはゆっくりの良さがあるんですよ。
そして、若い指導者や学習者には「大学卒業後も学び続けた方がいい」とエールを送る。
桐朋で指導していた時に、先輩から「レッスン後にすぐに生徒を帰してはいけない」と注意を受けたことがあります。生徒と話しをしなさいということですね。今は時間がありますから、一生懸命生徒と話しています。大学を卒業した生徒とは婚活や妊活の話までね。皆さん学生の時はピアノ第一で取り組めますが、卒業後にいろんなことが起きてどうやってピアノを続けるかで悩みますから。それでも続けた方がいいと思います。卒業後にこそ、いろんなことがわかってきて面白いのですよ。長生きすると人生って捨てたもんじゃないって思います。
指導者、演奏家として経験を重ねてきた現在もなお学びを深めている。
ブルーノ・リグットさんにオンディーヌのある箇所についてアドバイスしていただいて、そのおかげで深く理解できたことがありました。その一言は時間にもお金にはかえられないですね。今こそ学んでいますよ。また、ジャック・ルヴィエ先生は一度聴いただけで演奏者の特性を完全に見抜かれます。それは、世界中の若者を指導された豊富な経験とご自身の信念には狂いがないからですので、是非見習いたいと思います。
- ラザール・レヴィ(1951)「解釋の過剩について」『音楽芸術』1月号p.2
- 『標準音楽辞典』音楽之友社
- 吉田秀和(1950)「レヴィ教授の公開講座」『芸術新潮』1(12),p.93
- 安川加壽子(1965)「ラザール・レヴィ先生のこと」『音楽之友』2月号
- 安川加壽子(1965)「ラザール・レヴィ先生のこと」『音楽之友』2月号
- 「せんせいこんにちは116金沢桂子先生」(1975)『レッスンの友』レッスンの友社