多 美智子 第4回 日本に舞い降りたフランス音楽の使者
日本に舞い降りたフランス音楽の使者 Michiko Oono
安川加壽子
(『音楽芸術』(1996)9月号)
安川加壽子は、日本に舞い降りたフランス音楽の使者だった。東京藝術大学教授、そして日本を代表するピアニストとして第一線で活躍し、ドイツ音楽一辺倒だった楽界に風穴をあけた安川。鬼籍に入って22年を経た今も、功績は楽界の枠を越えて語り継がれ、日本の音楽界の一番星として輝く。
戦争の火の手がいよいよ迫ってきた、1940年の日本。「ドイツ音楽が唯一の音楽」とされていた楽壇に、知性とピアノの才能を兼ね備えた19歳の少女が、フランスの風を持ち込み華麗にデビューした。安川は、幼少期に外交官の父の赴任先であるフランスに渡り、パリ高等音楽院の予科に学び、15歳で本科を最高位の成績で卒業するまで、フランスの音楽教育を身につけて育った。日本デビューの衝撃は、すさまじかったという。
ただ、日本人が“本場の音楽”にまだ接触する機会が少なかったことを差し引いても、安川の才能と存在感は、絶対的だった。音楽評論家の山根銀二が書いた安川のデビューリサイタルの批評は、当時の安川(当時は旧姓の草間)のことを理解するのに役立つ。
帰朝以前から色々と評判になっていた人であるが、当夜はそれが全く誇張でなかったことを実証した上に、それを遙かに越えて類い稀な独特の力量を発揮してみせたのであった。~その演奏が借物ではなくて自分のものであり、しかもひたすら純粋であり得るのは、この人の優れた音楽的素質とそれを実現して見せるに足る洗練された技巧による。それは既に一種の完全さを具えた芸術境でもありうる脚注1。
安川の“完全さ”は、音楽評論家や知識人、クラシックファンを深く納得させ、日本の西洋音楽を取り巻く環境に違和感なく溶け込んでいった。
演奏はもちろん、ピアノ教育においての影響は絶大だった。1946年東京音楽学校の講師に就任してから、退官する1989年までに、一期生の金澤希伊子をはじめ、高弟の井上二葉、現在フィンランドと日本で活躍する館野泉、そして多 美智子ら多くのピアニストやピアノ教育者を育てた。安川は、東京音楽学校以外に、後に桐朋学園と大阪音楽大学でも教鞭を執り、演奏活動を両立し多忙な日々を送ったが、生徒のレッスンは休まないことで有名だった脚注2。そこは義務感だけではなく、「自分の考えている音楽をできるだけ正しくみんなに勉強してもらいたい」という思いが安川を支えていた脚注3。
多は、小学5年の時、池内から紹介を受け、金澤希伊子に指導を仰いだ後、安川に長い時間をかけて丁寧に育てられた。「ちょうど金澤先生がフランスからお帰りになったところで、安川先生に伺う前に準備をしていただきました。それは、それは厳しいレッスンでした。『安川先生にお見せするには』と、音符が読めないくらいに注意で楽譜が真っ黒になりながら仕上げていただきました」と多は話す。しばらくしてやっと安川に聴いていただいたのが、それは入門のためのオーディションのようなものだった。その後、金澤のレッスンで了解が出ると安川のレッスン日が決まるという形が続いた。「テクニックの面では、大変苦労しました。金澤先生の厳しいレッスンで、一曲を徹底的に仕上げていただく。なかなか完璧に弾けなかったんだと思います」。多の成長は、金澤の徹底した基礎の指導と、安川の素質に合わせた本質的なレッスンの賜物だった。
結果が明白になるコンクールとは無縁だった。「藝高受験の時に、安川先生の門下から受ける人が6人くらいいましたが、学生のコンクールに入賞している人もいました。一方で私は、コンクールがあることを知ったのが、藝高に入ってクラスメイトの誰かから…という程でした」。藝大がコンクール参加に消極的な時代があったことも関係しているだろう。しかし、安川は「一人の生徒を仕上げると云った事はあまりやりません。自分の素質を自分で探し出せるように導きたいと思っております脚注4」と断言。多のレッスンにはその考えが如実に反映されていた。
多も、恩師の意図を汲むようにこう話す。「先生の曲の選び方を振り返ると、生徒の良いところを伸ばせるようにと、私にあったものを選んで与えてくださっていた気がします。もちろんバッハもエチュードも平行しながら、生徒の良さが出しやすい曲を選んでくださっていたことは確かです」。テクニックだけではなく、安川は多の豊かな表現がよりいきるよう導いていた。
「大学2年次までコンクールに参加してはいけない」というピアノ科のルールが解禁となる大学3年に、科のほぼ全員がコンクールに参加した。多にとっては初めてのコンクールだった。予選を通過し、本選の課題はショパンのソナタ3番と舟歌。その舟歌の最後で、1小節右が抜け落ち、左のメロディだけになってしまった。
日本音楽コンクール一位を伝える記事。(毎日新聞)
そして2年後。コンクールの本選課題曲が、オーケストラ伴奏でショパンの協奏曲2番(へ短調)に決まると、再挑戦を推す声があることを安川から伝えられた。周りのからの声にも背中を押され、参加を決意。予選を進み、本選を控えた直前の時期に、作曲科の池内から「みんなを集めてあげるから、作曲科の部屋に来なさい」と声をかけられた。多が部屋を訪れると、矢代秋雄、三善晃、佐藤眞と作曲科の面々が並んでいる。池内が「矢代にオーケストラパートを弾かせるから」と、課題曲の協奏曲を本番さながら、矢代と連弾する機会を与えられたのである。池内の粋な計らいも功を奏したのか、多は日本のコンクールの最高峰・日本音楽コンクール(毎日コンクール)で一位となった。安川門下生としても、藝大生としても、多の一位は快挙だった。
ところで、安川が伝えようとしていた安川の考える音楽とは、どのようのものだったのだろうか。作曲家の三善晃は、安川が亡くなった際、追悼文「美しくモラルな『自然』」を寄せた脚注5。題名は、もちろん安川を表したもので、三善は至極丁寧に安川の美しくモラルな自然たる理由を説く一方で、安川の運動(演奏)は「方法論的に解体したり、分解できるものではなく、常に一つの全体として存在し、方法論的な解体をはるかに越えたところで呼吸していた」として、門下生に果たして演奏の技術や方法として分与されたのだろうか、と記している。青柳いづみこは、それに一つの答えを示している。安川の指導の最も重要な部分が、「合理的な奏法による完全な脱力、楽器から美しい響きを引き出すという点」と鋭く指摘脚注6。ここに、安川の教えた音楽の一側面を見つけるのである。安川は確かにレッスンで多くを語らなかったという。しかし、大事な脱力については、安川が支えた手から、テンポを打つ呼吸から、言葉や方法論を越えて優秀な門下生たちは自らの中に吸収していたのだろう。響きの奥で会話するように。
安川加壽子の功績は、門下生によって今なお語り継がれている。門下生が中心の安川加壽子記念会が主となり、2019年から「2022 安川加壽子生誕100年記念事業」脚注7を計画している。
- 脚注1
- 「東京日日新聞」1941年。青柳いづみこ『翼のはえた指 評伝安川加壽子』(2008)白水社p.35より引用
- 脚注2
- 青柳いづみこ『翼のはえた指 評伝安川加壽子』(2008)白水社p.239
- 脚注3
- 「安川加壽子 私のピアノ演奏を語る 生い立ちの記(Ⅱ)井上二葉(聞き手)『音楽現代』(1980)10月号p.194
- 脚注4
- 青柳いづみこ『翼のはえた指 評伝安川加壽子』(2008)白水社p.210より。元は、1964年6月に音楽教育に関する質問に安川が答えたときのもの。
- 脚注5
- 三善晃 特集Ⅱ 追悼・安川加壽子「美しくモラルな『自然』」『音楽芸術』(1996)9月号
- 脚注6
- 残念ながら日本のピアノ界がその点について普及することができなかったと記している。
- 脚注7
- 安川の紹介したフランスのテクニックを映像と共に紹介する会や、安川により導入された幼児のメトードの素晴らしさを再認識し、再普及させるための各地において講座などが計画されている。 昨年10月20日、21日には、日仏会館で回顧展と座談会が開催された。