ピティナ調査・研究

ジェームス・ダン物語 第1回

ジェームス・ダン物語 第1回

今回の主人公は、戦前に活躍したピアニスト「ジェームス・ダン」です。既に彼については、多 美智子先生の連載の中で詳しく紹介しました。前回彼を調査し多くのことが明らかになった一方で、一部しか掲載することができなかったことから、今回特別にジェームス・ダンを主人公に掲載することになりました。
多先生の取材時に、ジェームスを調査するため札幌真駒内にある「エドウィン・ダン記念館」を訪ねました。エドウィン・ダンはジェームスの父で、記念館にはエドウィンの北海道での功績を展示してあります。館長の園家(そのけ)廣子さんは、長い年月をかけてコツコツとダン一家について調査されてこられ、それらについて丁寧に説明をしながら教えてくれました。その調査結果が今回の連載の元になりました。
今回は「わたしたちのピアノ教育史」の番外編、「ジェームス・ダン物語」を全3回掲載いたします。

生い立ち
父 エドウィン・ダン
ジェームス・ダン
(『音楽新潮』1928年9月号より)

ジェームス・ダンは、大正から昭和初期にかけて活躍したピアニストで黎明期の楽壇で一際輝きを放った。アメリカ人の父エドウィンと日本人の母やまの間に生まれ、男ばかりの4人兄弟の次男として育った。彫りの深い顔のつくりは父譲りであろう。父のエドウィンはアメリカ・オハイオ州出身の農夫で、北海道開拓使の酪農・畜産分野のお雇い外国人として来日した。ゼロから牧場を開拓し、牧草品種の選定から牛の飼育・搾乳・去勢・繁殖法の技術の普及のみならず、乳製品・食肉の加工技術に至るまで指導し今日の北海道の酪農の礎を築いた。ウィリアム・クラーク博士が初代校長を務めた札幌農学校(後の北海道大学)でも現場で指導にあたり、弟子等には真駒内牧牛場の場長に成長した者、あるものはのちに雪印乳業となる北海道製酪販売組合連合会の立ち上げに加わった者もいた。これらの源流となったエドウィンは「北海道の酪農の父」と呼ばれる。エドウィンは、開拓使廃止後に一度帰国するがアメリカ公使館二等書記官として再び来日を果たし、その後は実業家として日本で過ごし1931年82歳で亡くなった。

直江津にて

ジェームスはエドウィンが公使時代の1898年に誕生した。4歳の時に父が公使の職を解かれインターナショナル石油会社の仕事に従事するようになったことに伴い、新潟県上越市直江津で幼少時代を過ごした。男4人兄弟という環境ながら家にはピアノと蓄音機があったという注釈1

元來父は音樂には相當深い敎養を持っていました處から直江津時代からピアノを買ひ込み注釈2、蓄音機などもありました。その頃ヴイクタア注釈3が初めて出來た時分で、父はわざわざ亞米利加からレコードを取寄せて樂しんでゐましたが、私は解らないながらもその時分から音樂は好いものだと考へてゐました。その時分のカルソー注釈4の曲は今でも私の頭に殘つてゐますが、私の音樂に對する愛着は恐らくその時代に植つけられたのだと思ひます。

『ヴィクトローラ』の最高峰として生産された「クレデンザ」(1920年代)。富士レコードには、野村胡堂(音楽評論家のあらえびす)の愛機が鎮座している。

蓄音機について触れると、1877年アメリカでトマス・エジソンにより発明された後、1896年に日本への輸入が開始されている。ダン一家の直江津滞在は1901〜1907年だったことから、エドウィンは輸入が始まって間もない頃に蓄音機を手に入れたことになる。どのような蓄音機だったのか調べたところ、後にジェームスの妻・道子が「(エドウィンが)『ヴィクトローラ』でたくさんのレコードを聞いておりました」注釈5と文章に残していた。富士レコード(神保町)佐藤満弘氏によると「『ヴィクトローラ』とは、ヴィクターで生産した蓄音機全般を指す」という。そのため、博物館で保管されるような物から小型のポータブルまであり、現在エドウィンが購入したものがどれか特定するのは難しい。ただ、佐藤氏 は「要職を務めた人物がわざわざ購入する品としては、小型なものは考えにくく高級な(大型の)ものを選んだと考える方が自然でしょう」と話す。

東京へ

ジェームスが直江津小学校に通っていた折、父の会社が直江津の事業から手を引き、エドウィンが三菱商船に迎えられたのを機に一家は1912年東京に居を移した。妻やまが直江津で第5子出産時に難産が原因で亡くなったため、エドウィンは年頃の4人の息子たちの教育を一手に背負うことになった。彼は4人それぞれに「お目付役」をつけるほど教育に熱心で注釈6、ジェームスは慶應の幼稚舎に転校しそのまま中学普通部と進み恵まれた環境で学生生活を送った。

左よりエドウィン・ダン、ジェームス(東京音楽学校在学中)、三男ジョン、四男アンガス(エドウィン・ダン記念館提供)
中身は純日本人
前列 芥川龍之介、後列 三男ジョン、四男アンガス(エドウィン・ダン記念館提供)

ジェームスは、慶應時代に様々な友人と交遊し見聞を深めた。学友ではなかったが、ダン家に出入りしていた友人の中には作家の芥川龍之介もいた。

ジェームスは懐の深い性質で、大人になってからも交友関係は広く音楽以外の友人とも深く付き合った。エドウィン・ダン記念館の園家廣子さんは、「ジェームスは、泉鏡花ら文化人と銀座の小料理屋『岡田』で集まり交流していました注釈7。彼らから受けた影響などを含めて、ジェームスの中身は純日本人と言っていいと思います」と話す。興味深いことにジェームスは、『現代音楽大観』(1927、ジェームスが30歳の時)の中で趣味に「演劇、畫(え)、長唄、新内注釈8、淸元注釈9等」を挙げている。周囲の知識人、文化人との交流をきっかけに日本の伝統文化から美術、演劇などに触れたり理解するようになり、文化人としての洗練された感覚を身に付けていったのだろう。

 ジェームスが音楽の道を志したのは中学3年の頃だった。幼い頃から音楽に親しんできたことで音楽の耳が養われていたのだろう、ピアノの才能を伸ばし東京音楽学校ピアノ科に入学を果たした。

  • 『婦人倶楽部』1927年4月号
  • 当時は、まだ国産グランドピアノ第一号が完成したばかりの頃で数も少なく高価だった。
  • アメリカのビクター。1893 年アメリカでビクターの前身「米国グラモフォン会社」が設立され、それにより、それまで開発の色が濃かった事業が商業ベースにシフトした。1894 年に 7 インチ盤が演奏時間 2 分で発売され、翌年「ベルリーナ・グラモフォン会社」の設立をうけ本格的な商業化が進んだ。(参考資料『音の歴史とビクター』日本ビクター株式会社)
  • イタリア・ミラノのスカラ座で名声を上げていたオペラのテノール歌手。
    1900年に入り、名演奏家シリーズとして売り出した「赤盤」(赤いレーベルを使っていた)が人気を博しレコードの売り上げを支えた。最初に赤盤歌手として有名になったのがエンリコ・カルーソーで、英・グラモフォンで 1902年に彼の歌が最初に録音され、1905年にはビクターと専属契約を行った。(『音の歴史とビクター』日本ビクター株式会社)
  • ダン道子(1968)『明治の牧柵』p.97
  • 瀧田寧(2013)「第三章 ダン一家と直江津 —『赤煉瓦の異人館』案内板からの出発— 」『日本海沿いの町 直江津往還』文学と近代からみた頸城野 社会評論社p121
  • 小説家、画家、歌舞伎役者、弁護士や新聞記者等がいた。ジェームス・ダン(1950)「十年前の今月今日」『音楽芸術』2月号p.56
  • 鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。浄瑠璃の豊後節から派生したが、舞台から離れ、花街などの流し(門付け)として発展していったのが特徴。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受け、隆盛を極めた。(Wikipediaより)
  • 三味線音楽のひとつで、浄瑠璃の一種。主として歌舞伎や歌舞伎舞踊の伴奏音楽として用いられる。(Wikipediaより)
エドウィン・ダンに関する参考資料
  • 阿部三恵(1995)『エドウィン・ダンの妻ツルとその時代』道選新書
  • 赤木駿介(1984)『エドウィン・ダンの生涯』講談社
  • ダン道子(1968)『明治の牧柵』
「Hokkaido Magazine KAI」特集 札幌農学校 第2農場へ
北海道の西洋農業前史 -3 
谷口雅春 「豊平川の鱒釣りから北海道酪農史へ」

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