多 美智子 第1回 西洋音楽黎明期に音楽と教育に身を捧げた夫妻
ピアノ教育の系譜を辿るこの連載。少し時間が空きましたが、今回より多 美智子先生のご登場です。多先生は、高良芳枝先生のご退官後、弓削田先生の指導を引き継がれ、藝大大学院時代のピティナコンペティション金賞の道へと導かれました(弓削田優子先生連載第二期ご参照)。
今回の連載は、「様々な角度からピアノ教育の歴史に光を当てる」という当連載の使命の元、「若い方たちに、安川先生が日本のピアノ黎明期にフランス音楽の新たな潮流を持ち込まれた功績を知ってもらいたい」という多先生のご意向に沿い、多先生の恩師の方々を深く掘り下げます。初回は、幼少期にお習いになったダン道子先生と、ご主人でピアニストのジェームス・ダン氏の物語です。
ジェームス・ダン
(1927年「現代音樂大観」)
日本大学芸術学部に「ジェームス&道子・ダン奨学金」というピアノコース学生を対象にした奨学金がある。授賞の際には、学部長から受賞生にジェームス&道子・ダンについての談話があるという。1987年の奨学金設立以来、若い演奏家を支えつつ功績を後世に伝えてきた。 ジェームス・ダンは、日大芸術学部が初めて招いたピアノ指導者である脚注1。1929年にジェームスと共に招かれた実技指導者は4名で、声楽の内田栄一脚注2・松平里子脚注3、ヴァイオリンの鈴木慎一脚注4という顔ぶれだった。まだ若手だった彼らに、芸術学部の創立者・松原寛脚注5が直々にお願いに訪れたという。日大最初のピアノ教員という点で、ジェームスは現在まで続く日大ピアノコースの源流であった。
ジェームスは、日大に招聘される以前に東洋音楽大学(現在の東京音楽大学)や東京兒童樂團香蘭女學校で教鞭を執っていた。指導者として実績があった一方で、彼の膨大な演奏会・ラジオ出演の記録やレコード録音を概観すると、当時既に名の知れたピアニストで、しかも第一線で活躍していたことがわかる。ジェームスは、東京音楽学校研究科を修了脚注6した翌年1921年にデビューすると、早速『音楽年鑑』に名だたるピアニストとともに名前が列挙され「伴奏者としては多く出演されしは榊原直氏脚注7にてセームス・ダン氏も多かりき」と特筆された。さらに、10年後の1931年の読売新聞「學藝界 オン・パレード 樂壇系統分布圖」でも、「日本青年館と日比谷公会堂の2大ホールにおける伴奏の出演数が、榊原直からジェームス・ダンに移り、さらに今や近藤拍次郎になった」と記されており、ジェームスが演奏家から認められた伴奏者だったことを伝えてくれる。
さらにジェームスは、伴奏者以外に、2年間のベルリン留学を経たことから、本場のドイツ音楽を伝えるエバンジェリストの役割も担っていた。この頃からドイツ音楽が演奏され始め、徐々に受容され始めていたこと脚注8、さらにベートーヴェンのメモリアルイヤー脚注9が続き、その都度西洋音楽全体への理解が進んだことなどもその背景にあるだろう。帰朝演奏会(1925)では、「サンサーンの司伴樂(コンツェルト)にベートーヴェンのソナタ、シユーマンの幼い頃(『子供の情景』)を披露し、恩師に「このプログラムならドイツへ行つてもこれまでです脚注10」と太鼓判を押された。その3ヶ月後には、母校脚注11の慶應ワグネル・ソサィエティーの第39回演奏会に出演し、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番を、翌年「ベートーヴェン百年祭大音楽会」で《月光》ソナタを、同年ラジオ放送の企画で田中万太郎(ヴァイオリン)とヴァイオリンソナタ《春》など3曲を演奏した脚注12。日本のベートーヴェン受容についてまとめられた名著『「楽聖」ベートーヴェンの誕生―近代国家がもとめた音楽』(平凡社選書)にも、初期にベートーヴェンを演奏した人物としてジェームスの名前が散見される。この当時のジェームスについて、女流ピアニストの嚆矢であり、東京音楽学校で名実ともに名教授として大きな力を誇った幸田延が、「日本人として脚注13あれだけに弾ける人はいない」脚注14と評した言葉も彼の実力を裏付ける。
ジェームスは多くのレコードを残しているが、そのほとんどが歌の伴奏である。ジェームスと歌には、一つの接点がある。音楽学校時代の師として知られる3氏脚注15のうちの一人が、ハンカ・ペツォルトである。ペツォルトはフランツ・リストにピアノの指導を仰いだが、東京音楽学校ではピアノと声楽を指導し、特に三浦環、立花房子、原信子ら、後に声楽界の先駆者となる声楽家を育てた。作曲家の諸井三郎が、ペツォルトについて残している脚注16。
(作曲家グループ「スルヤ」脚注17の創設メンバーだった長井維理(ういり)について)維理さんは歌が非常にうまかったんです。テノールでね。当時、東京音楽学校にペツォールドさんという女の声楽の先生がおられて、柳兼子さん脚注18とか、みんなこの先生の薫陶を受けられたものです。維理さんもその方に習っておられましてね。じつにうまかった。
ジェームスは、ピアニストでありながら「ペツォルト門下」としてみられることも多かったようである脚注19。
1924年ペツォルトの謝恩音楽大演奏会(読売新聞主催)を開催し、その収益をペツォルトに贈呈し、さらにペツォルト門下生が中心となり1925年6月に帰朝を歓迎する音楽会を開催する予定である、という内容である。「読売新聞」1925年5月18日
「ねんねの祭」(ジェームス伴奏)。(富士レコード社・佐藤満弘氏提供)
日本蓄音機商会脚注20の新譜広告。ジェームスは、柳兼子と立松房子の伴奏をしている。2人は、立松が一つ先輩でペツォルトに師事ししていた同門生である。少し後輩にジェームスも同門と考えると、当時のペツォルトの門下の勢いを感じる。「音楽新潮」1926年11月号
レコードが音楽ファンによって愛されたメディアだった一方で、一般向けに浸透し音楽ファンの裾野を広げたのがラジオ放送である。1925年3月22日にラジオ放送が始まると、瞬く間に普及し、西洋音楽を届ける格好の手段となった。そしてラジオのメディアにおいても、ジェームスはスターだった。
1929年読売新聞が実施したファン投票がある。ラジオで人気の「小唄」「長唄」「映画物語」「洋楽」「琵琶」の7つの演芸で新人を推挙する投票が実施された。ジェームスは、洋楽部門で一位を獲得したのだ。ちなみに、二位は藤原義江、五位に松平里子など著名歌手が続く。人気、知名度、実力において、ジェームスは格別の存在感を放っていた。そして、昭和初期コンサート、レコード録音、ラジオそれぞれのメディアが真新しく大衆から重宝され、注目を集めた時代に、西洋音楽を広めようと尽力したジェームスは、それぞれにおける開拓者であり、楽壇の輝く星であった。日大に招かれたのは、まさにそんな時期だったのである。
ジェームスが日大に奉職して4年が経った頃、松原学部長が直々にダン・道子の元を訪れた。芸術学部設立に伴い、音楽に関しては小さい頃からの稽古の必要があることから児童科の話があがり、その園長を打診するためだった。道子は、自由に任せてもらうことを条件に承諾した。この頃、幼い子への芸術教育について道子が記している。
誰にしても、生れて來る時には、必ず何かの「才の芽」を持つてゐるものです。~その與へられた「才の芽」を育み、いつくしまれて、その體(からだ)と共に、成長をして行く時、その人の生活は、明るい輝きと、樂しさに満ち満ちています。~
私は才能は誰にでも與へられるものでありながら、それが發見され、育まれる機會の少いことを口惜しく思ふのです。~ですから、「始めだから一寸間に合せで・・・」などといふことは、決してしてはいけないので、始めから確かりと植えつけて行かなければいけないのです。脚注21
道子は、この時期多数の童謡を作曲しレコードに残している。おそらく自ら教材作りのため、作品を書いたと推測される。道子は1939年に江古田へ移転するまで園長を務めた。多は、道子のレッスンについて「幼稚園から小学1年生の頃まででしょうか、ピアノとお歌の他、レッスンに伺うとき、玄関で「ごきげんよう」とご挨拶をする。言葉遣いや所作などは特に厳しく習いました」と振り返る。
ジェームスと結婚する前の記事のため、“村山(旧姓)道子さん”と表記されている。「読売新聞」
(1926年5月10日)
ダン・道子(「すみれの歩み」すみれ幼稚園創立40周年記念より)
道子は幼い頃から活躍した子供歌手で、山田耕筰、立花房子らに師事し本格的な歌唱法を習い声楽家として活動の幅を広げた。ジェームスとも日本蓄音機會社脚注22のレコード録音がきっかけで出会ったという。結婚後、夫婦で演奏を披露する回数も増えていったが、ジェームスに比べ、道子の仕事は常に「教育」と関わりがあり、人を育てることが根底にあった。終戦後に始まったラジオ放送『幼児の時間』『うたのおばさん』は、彼女の最も大きな功績だろう。テレビがない時代に人気を集め、《ぞうさん》《とんぼのめがね》などの名曲を生んだ名物番組で、道子は歌い手や歌唱指導として関わり、年配の人には「うたのおばさん」でピンとくるくらいである脚注23。50歳を過ぎた頃にはすみれ幼稚園脚注24(吉祥寺)の園長を務め、現在も幼稚園では彼女が作曲した園歌が響く。
北海道にある「エドウィン・ダン記念館」脚注25では、ジェームスの父・エドウィン・ダンの功績を見ることができる。ジェームスや道子に習った人々が、彼ら家族の足跡に触れようと今も訪れるという。
- 脚注1
- 1922年芸術学部創立時は、音楽理論のみで実技の授業がなかった。そのため、しばらく受験者数が伸び悩んだが、1929年実技指導の教員4名が招かれ、授業が実践化、多様化していった。
- 脚注2
- 1901年生まれ。東京音楽学校卒業した声楽家。1927年オペラ研究団体「ヴォーカル・フォア」を松平里子と設立。当時、NHKラジオ第一放送の洋楽部長をしていた堀内敬三に顧問をお願いし、月一回同団体のオペラをラジオで流しオペラ普及に貢献した。松平寛直々の要請を受け日大最初の声楽指導者に就任。
(1972年『松原寛』日本大学芸術学部五十周年記念 松原寛(伝)刊行委員会より) - 脚注3
- 1896年生まれ。東京音楽学校卒業した声楽家・オペラ歌手。1931年遊学していたイタリアミラノで病気になり客死した。
- 脚注4
- 1898年生まれ。音楽教育理論、スズキ・メソードの提唱者。諏訪自根子、江藤俊哉ら、日本のヴァイオリンの先駆者を育てた。
- 脚注5
- 1892年生まれ。京都大学哲学科を卒業した思想家・教育者だった。京都大学時代に、玉川学園創立者の小原国芳と親交を深める。1922年、新聞記者時代に、学友だった円谷弘に誘われ、日大の教授に就任。まもなく芸術学部の前身である美学科の主任となった。著書に『芸術教育』など。
- 脚注6
- 東京音楽学校を卒業後に、研究科で2年学んだ。
- 脚注7
- 金子勝子 第2回 湧き上がる”教育者マインド”の源を参照
- 脚注8
- 東京音楽学校でのベートーヴェン交響曲第九番の全楽章演奏が、1924年だった。それを聴いた人々は、歓喜に沸いたという。
- 脚注9
- ベートーヴェン生誕150年祭(1920)、ベートーヴェン没後100年祭(1927)。
- 脚注10
- 読売新聞1925年2月21日
- 脚注11
- ジェームスは、慶應中学高校で学んだ。
- 脚注12
- 3曲のうち2曲は日本初演(《春》を除く)。読売新聞(1926年3月26日)より
- 脚注13
- ジェームスは、米国人と日本人の間に生まれたため国籍を選ぶことができたが、1910年5月28日に日本国籍を選び帰化。
- 脚注14
- 朝日新聞1925年12月12日
- 脚注15
- 『現代音楽大観』(1927)ゆまに書房p179。神戸絢、弘田龍太郎、ハンカ・ペツォルトの3氏。
- 脚注16
- 秋山邦晴『昭和の作曲家たち 太平洋戦争と音楽』林淑姫編(2003)みすず書房p54
- 脚注17
- 1927年に諸井三郎ら、東京大学の音楽愛好家7名で設立された作曲家・音楽グループ。
- 脚注18
- 東京音楽学校声楽科を卒業し、アルト歌手として活躍。「民藝運動の父」柳宗悦と結婚。宗悦は、東京大学哲学科を卒業後「用と美が結ばれるものが工芸である」と謳い民藝運動を興し、雑誌『工藝』を創刊した後、1936年に建設された日本民藝館の初代館長を務めた人物。
兼子は、日本を代表する工業デザイナーの柳宗理ら3男を育てながら、アルト歌手、指導者として一線で活躍した。 - 脚注19
- 1925年の帰朝演奏会の読売新聞の記事では、ジェームスは「ペツォルト門下」と記されている。
- 脚注20
- 現在の日本ヴィクター
- 脚注21
- 『生活と趣味』(1934)生活と趣味之会9月号
- 脚注22
- 日本コロンビア株式会社
- 脚注23
- ジェームスの父、エドウィン・ダンについてまとめた赤木駿介は、自著のあとがきで道子に触れている。
「どこかで聞いたことのあるお名前でした。そうなのです、歌のおばさん第一号、美人歌手としてクラシック界、歌謡界の人気スターだった方です。」 - 脚注24
- 参照リンク
- 脚注25
- 参照リンク